明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(5)

留守政府の栄光と混迷

(急進的改革の加速)

 留守政府は、使節団が出発するや、満を持してというか、鬼のいぬ間の洗濯とばかりにというか、それまで以上に急進的改革を加速し、次々と実施して行った。試みに、これらを年表にして書き出してみると、以下の如し、である。

 72年1月27日  華士族・卒の職業自由許可
注:卒とは最下級の武士の身分

 同年3月8日    卒身分の廃止
 同23日       土地永代売買解禁
注:土地永代売買の解禁は、自由な土地所有権を認めるものである。

 同年9月4日    学制公布
注:全国を8大学区にわけ、それぞれに大学校を1校もうける、各大学区を32の中学区に区分し、それぞれに中学校1校をもうける、中学区を210の小学区に区分し、それぞれに小学校1校をもうける、小学校は修業年限4年の義務制とするなど

 同年10月2日   家抱(けほう)・水呑百姓解放、農民の職業許可
注:家抱も水呑百姓も本百姓に隷属する農民
 同年11月2日   人身売買禁止・芸娼妓解放・強制的年季奉公の禁止
 同年12月28日  徴兵の詔と太政官告諭
注:世襲坐食の武士にかわって国民皆兵制とすることにより、四民平等と自由を実現できると説く

 73年1月1日    太陽暦実施(旧暦12月3日を新年の1月1日とする)
 同10日        徴兵令公布
 同年7月28日    地租改正条例公布
注:田畑のみの貢納制を廃止し、全ての土地の価格に所定割合を乗じた額の地租を納める制度。これにより封建的土地所収制度は解体され、近代的土地所有制度の確立が始まった。
 
 これらの中で、徴兵制、地租改正、学制は、明治の三大改革と言われるものでるが、これらが全て留守政府の手で行われていることに注目したい。さらに、留守政府は、士族の完全消滅をもたらすことになる秩禄処分にも大きく歩み出していることが、前出の大久保宛て西郷の1872年3月23日付書簡によって確認できる。
 
(躍動する江藤新平)

 江藤は、旧肥前藩出身、後に1874年2月、佐賀の乱の旗頭に祭り上げられ、敗北後、現地に入り陣頭指揮をとった大久保の命により、斬首の上、梟首(きょうしゅ)という残酷な処罰を受けている。
 
 江藤は、留守政府にあって、当初は、太政官の立法機関と位置付けられた左院の副議長として左院を行政権から独立性を高めるべくため努力した(たとえば左院事務章程に「オヨソ一般ニ布告スル諸法律制度ハ本院コレヲ議スルヲ通則トス」と定めて、立法の専管機関であることを明らかにした。)。
 ついで江藤は、1872年5月、司法卿に転じたが、ここでいかんなくその能力を発揮する。司法省は前年8月に設置されていたが、刑事裁判事務を所管するものの民事裁判事務は大蔵省監督下の地方官が処理するなど、全般に影の薄い存在であった。江藤は、これにメスを入れ、裁判所を整備し、刑事裁判事務を行うだけではなく、地方行政を司る地方官が行っていた民事裁判事務を裁判所に引き取らせ、行政権から独立した司法権の確立を図ろうとした。
 それを明文化したのが、同年9月制定の、全文22章108条からなる「司法職務定制」である。これを見ると、裁判事務を、司法省管轄下の裁判所に移すだけではなく、裁判所を構成する裁判官が、かつての封建的意識に毒された地方官から移行した者が多かったために、その権限濫用と違法・不当な裁判を防止し、人民の権利を擁護するための手段、手続きも盛り込まれているのが注目される。
 さらに江藤はその歩みを前に進める。上記「司法省事務章程」に基づいて、民事裁判事務を裁判所に回収する取り組みに対して、大蔵省及びその配下の地方官らが抵抗を続ける。彼らの横暴が次第に明らかになる。その過程において同年12月、「司法省達46号」が発出された。以下に抜粋する如く、「司法省事務章程」の趣旨を一層明確にかつ具体化したものと言える。

・ 地方官及ヒ其戸長(注1)等ニテ太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニモトリ規則ヲ立テ或ハ処置ヲ為ス時ハ、各人民(華士族卒平民ヲ併セ称ス)ヨリ、其地方裁判所ヘ訴訟シ又ハ司法省裁判所(注2)ヘ訴訟苦シカラサル事
・ 地方官及ヒ其戸長等ニテ各人民ヨリ願伺届等ニ付キ、之ヲ壅閉(注3)スル時ハ各人民ヨリ、其地方裁判所エ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事
・ 各人民此地ヨリ彼地ヘ移住シ或ハ此地ヨリ彼地ヘ往来スルヲ地方官ニテ之ヲ抑制スル等人民ノ権利ヲ妨ル時ハ、各人民ヨリ其地方ノ裁判所亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事
(中略)
・ 各人民ニテ地方裁判所及ヒ地方官ノ裁判ニ服セサル時ハ司法省裁判所ニ訴訟苦シカラサル事

注1 戸長とは、当時の地方組織の最末端の役人である。
2 司法省裁判所は、地方裁判所の上級裁判所であるが、後に、1875年1月の大阪会議とこれを受けた同年4月の漸次立憲の詔に従い、同年5月、大審院が設置され、廃止となった。
3 壅閉 握りつぶすこと


 徳富蘇峰をして「本来のラジカル」「制法的頭脳の持主」と言わしめた江藤の面目躍如である。
     (続く)
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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(4)

政権の要石となった西郷

(廃藩置県)

 政府メンバーの一新は、維新改革を前進させる力となった。というよりもその力を貯めるための一策であったというほうが正しいかもしれない。

 既に1869年に、各大名が、領地と領民を、国家に返上するという版籍奉還が実施されていたが、これは多分に名目的・形式的なもので、実質的には、各藩の領土・領民は、その後も各藩主の支配下にあった。このような中途半端な状態がそのまま残される筈はなく、当然、その先に、名実ともに、領土、領民を国家に帰属させ、各藩主の支配を断ち切る抜本的な変革、即ち廃藩置県が展望されていた。
 新たな陣容により基盤を強固にした政府は、そのわずか2週間余り後の1871年8月29日(旧暦明治4年7月14日)、これを一挙に実現させてしまった。まるで直属の軍隊の威力、西郷の叱咤激励の声、木戸の冷徹な論理の力につき動かされるように。

 ついに封建主義の根幹に大ナタがふるわれ、以後、わが国は中央集権の国民国家として、近代化の道を進み始める。
 しかし、その進め方、国家の統治システムの構想、不平等条約の締結を余儀なくされた西欧列強諸国やアジアの近隣諸国との関係等をめぐって、新たな対立と抗争が始まる。1871年8月末、西郷は、否応なくその真っ只中に立つことになったのである。

 木戸の急進的改革志向とそれに反発する大久保の自己の権力基盤固め、これらはその新たな対立と抗争の一局面であった。

 それに関して、西郷は、政策論では木戸を支持し、組織論では、大久保を支持したように思われる。それは結局のところ、権力基盤を固めようとする大久保を利する結果をもたらしたとも言えるのではなかろうか。

 前者に関して言えば、廃藩置県実施後、堰を切ったように、10月、「華族・士族・平民間の通婚許可」、「被差別民の解放」、「田畑勝手作の許可」(耕作の自由)などが実施されたことが確認できる。

 ① 廃藩置県と同時に太政官制が改革された。これは太政官を、太政大臣、左右大臣、参議の合議制機関たる正院、立法機関たる左院、各省長官の協議・調整機関たる右院の三つの機関からなるものとするなどの改革である。太政大臣に三条、右大臣に岩倉、参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任。大臣が天皇を輔弼し、参議・卿を指揮する。岩倉と大久保とは、丁卯(ていぼう)以来、つまり二人が相謀って発動した1868年1月3日(慶応3年12月9日。丁卯とはこの年のこと。)王政復古の大号令以来のツーカーの仲である。大久保にとっては、右大臣岩倉を通じて主導権を握れることは明らかで、この改革は、既に述べた有司専制の道を進めようとする大久保の意に沿うものであった。

 ② 9月、民部省が大蔵省に併合・廃止され、巨大な大蔵省が出現した。これは勿論、大蔵卿・大久保の権限強化となる。

岩倉遣外欧米使節団と留守政府

(モラトリアムは許されなかった)

 さて岩倉遣外欧米使節団(以下「使節団」という。)が横浜を立ったのは、同年12月23日である。そのメンバーの主だった顔触れを見てみよう。

 特命全権大使/右大臣 岩倉具視  副使/参議 木戸孝允
 副使/大蔵卿 大久保利通  副使/工部大輔 伊藤博文
 副使/外務少輔 山口尚芳

 使節団の意義、使節団の活動、その功罪等は、それはそれで興味深いのである、この小論では触れないことにする。ただ、まさに廃藩置県実施後、難問山積、新たな対立と抗争が始まっているこの時期に、このような豪華メンバーを揃えた使節団が派遣されたことに、私は、驚きを禁じ得ないとだけ言っておきたい。

 これに対し、このとき残された政府(一般に留守政府と呼ばれている。)のメンバーの顔触れを見ると以下のとおりである。

 太政大臣 三条実美  参議 西郷隆盛  参議 大隈重信
 参議 板垣退助  左院議長 後藤象二郎  外務卿副島種臣
 大蔵大輔 井上馨  兵部大輔 山縣有朋  開拓次官 黒田清隆

 この顔触れを見るとき、使節団のメンバーならずとも、独走したりはしないだろうかと心配になる。そのためか、使節団の主要メンバーと、留守政府のメンバーとの間で、それぞれ署名捺印までして取り交わした十二箇条からなる約束書を取り交わしたのであった。その中には、その趣旨を次のように要約できる項目があった。

・内政・外交の重要問題については、使節団帰国後に手をつける。
・留守政府の人事に関しては、現状を維持する。
・使節団と留守政府との間に、議論、矛盾、差異を生じないようにする。
・廃藩置県の目的に沿う改革は実施すべきである。

 使節団のメンバーからすれば、このような約束書を取り交わしておけば、西郷という要石もいることだから大丈夫と思ったに違いない。しかし、それは甘かった。留守政府は、取り交わした約束文書を無視して、後にみるとおり次々と新たな改革に手を染めて行ったのであった。
 使節団は、当初の見込みでは、10ヶ月半程度で帰国する筈であった。ところが実際には、1年9ヶ月という思いもかけない長期間の留守をしてしまった(もっとも三条からの訓令により、少し、早期に帰国した大久保、木戸の留守期間は、それぞれ1年5ヶ月、1年7ヶ月である。)。だから、使節団メンバーとしても、その背信を、公然と咎めることはできなかったのである。
 使節団が留守政府に抱く屈折した意識は、上述の新たな対立と抗争のもう一つの局面であった。
                     (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(3)

政権の要石となった西郷
 
(西郷の建策)

 おそらくこの勅使岩倉の鹿児島訪問直後のことと思われるが、西郷は、日ごろ政府に対して抱いていた不満を解決するために、以下のような建策をしたため書簡を岩倉に送った。一般に、西郷の「24箇条意見書」と呼ばれているものである。残念ながらその原本は残っておらず、書物によって異なる記述がなされている。以下の抜粋は、猪飼隆明『西郷隆盛―西南戦争への道―』(岩波新書)による。

 「皇国の国体は此の通り、目的は此の通りと、本朝中古以上の体をもとに据え、西土西洋の各国までもあまねく斟酌し、一定不抜の大体を知るべし。」
 「政権一途に出でざれば、分崩支離統紀なく、諸事貫徹せず。故に、廟堂上政権一に帰し、参政の人々常に闕下に(注:「皇居近くに」との趣旨)居住し、いかなる大乱変事あるとも政府に立たざるべからざる法を立つべし。」
 「朝廷上より府藩県に至るまで、政令一徹に出て、前後一貫二場ならざるようにすべし。」
 「上よりは府藩県一視同仁、その間一点の愛憎まじゆべからず。」
 「郡県封建の制、なおまた評議すべし。方今現時(注:「最近」という意味だろう。)の形成を観るに、郡県の制は長く行われがたからん。その弊害枚挙すべからざるに至らん。衆賢熟議の上、徐々にその制改むべし。」
 「朝廷に兵権なければ、いわゆる空名を上に掲げ給うまでにて、ややもすれば諸藩兵威をもって上を動かし、朝意あい立つ期なし。」
(以下略


 西郷独特の晦渋な文章が並んでおり、わかりにくいのであるが、超訳?すると、要するに彼の求めたものは中央集権制の確立と、統一され、公正で一貫性のある政治であったと言えそうである。

 これもまたおそらくであるが、岩倉から、この建策に同意する旨の回答を得られだろう。西郷は、ようやくのこと政府に参画する決断をしたのである。

 西郷が上京した直後の同月28日、右大臣三条実美邸で、岩倉、西郷、木戸、大久保、板垣、杉孫三郎(山口藩)の会談が行われた。その場で、上記「朝廷に兵権」をおくとの西郷の建策が協議され、採択され。これに基づき、4月2日、鹿児島藩歩兵4大隊、砲兵4隊、山口藩歩兵3大隊、高知藩歩兵2大隊、騎兵2小隊、砲兵2隊の合計1万の兵を徴集旨の命令が下され、同月11日、勅令によりこれらを兵部省管轄の下に、御親兵として編成することとなった。
 
(新たな政府の構成)

 この時期の政府は、太政官制であり、太政官の下に外務、民部、大蔵、兵部、刑部、宮内の各省が置かれ、太政官を構成するのは右大臣、大納言、参議の三職で、その合議体が立法・行政の司令部として、今の内閣以上の強い権限を持っていた。
右大臣は、三条、大納言は岩倉、徳大寺実則、鍋島直正(佐賀)、参議大久保(鹿児島藩)、副島(佐賀藩)、広沢真臣(山口藩)であったが、この年、2月27日に、暗殺された。
 各省には、長官として卿、次官として輔(経歴などにより大・中・少の格付けがなされる。)が置かれていた。

 西郷の上京後間もない頃から、岩倉、西郷、木戸、大久保、板垣らとの間で、新たな政府構成の検討が進められ、ようやく決着したのは8月11日のことであった。

 それによると参議は一新して、新たに西郷、木戸が就任することとなり、各省の卿・輔も一新された。各省人事の主だったところを挙げると、大蔵卿に大久保、大蔵大輔に大隈、民部少輔に井上、外務大輔に寺島宗則が就任した。

 これは西郷にとっても、一応満足のできるものだったようで、「このたびは俗吏もよほど落胆いたし、ぬれ鼠のごとく相成り申しそうろう」「大・少丞以下・・・・続いて相発しそうろうつもり」と、かつての盟友・鹿児島藩の桂久武に書き送っている(8月25日付書簡)。西郷のいう俗吏とは、おそらく特定の者ではなく、王政復古、戊辰戦争を闘い抜き、維新革命のとば口にまで達したところで、初心を忘れ、停滞し、退廃を始めていた政府要人全体に対する批判の言葉であったのではなかろうか。
         (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(2)

 「明治六年の政変」の意味、西郷がそこでめざしたものを解明するには、西郷が政府に加わる直前及びそれ以後、国政運営上いかなる問題があり、西郷はどのような問題意識を持っていたかを検討してみる必要がある。

 西郷が政府に加わる直前

(有司専制への歩み)

 1870年8月23日東京・集議院(公議所改め)の前で、わが国初代の文部大臣として名高い森金之丞有礼の実兄である元薩摩藩士横山正太郎が割腹自殺を遂げた。そのとき横山は、直訴の形式を踏まえて、一通の建白書を携えていた。それには以下の如き激烈な政府批判の条々が記されていた(原文をわかりやすく書き換えた。)。

① 大臣からして驕り、浪費、贅沢を尽くしている。上(かみ)は朝廷を誤らせ、下(しも)は貧しき者の飢餓に気付かない。
② 上位・下位の役人は華美となり、実利を得ることに汲々とする。
③ 朝決めたことを夕方には変える。万民疑い、寄る辺を失う。
④ 駅ごとに運賃を増やし、その上5分の1も税金を加算する。
⑤ 正直者を尊重せず、小器用な者を尊重する、廉恥の心を重んじない。
⑥ 官職に相応しい人を求めず、人のために官職をつくる。官職にあるものはただ上の言いなりである。
⑦ 酒食の交わりを重んじ、人としてなすべき交際を軽んずる。
⑧ 外国との条約がいいかげんなため常に争いを生じる。
⑨ 罪刑の法典がなく、賞罰は好き嫌いでなされる。そのため私的な恨みで冤罪を着せられる者もいる。
⑩ 上も下も自己の利益だけで動き、国は危うい。役人たちは恣意的で勝手なことをする。


 同じ薩摩藩出身の大久保利通は、この建白書の内容を知って「忠志感ずべし」ともらしている。心打たれるものがあっただろう。しかし、ここで批判の対象となっているのは、大久保が起草し、1869年8月、三職(大臣、納言、参議)各自署名した次の四箇条の誓約書によって運営される自らの政府に対するものであることを、大久保は忘れているようだ。

第一 機密厳守
第二 三職の熟議こそ意思決定の要諦である。
第三 三職の共同責任
第四 三職は、月に数度は各自の自宅を訪問しあい、親密にならねばならない(要するにお互いに飲食を供しあうということだ。)。


 このようなことを通じて、一部の者の専権体制を生み出すことになる。有司専制は、既にその歩みを進めていたのである。

(西郷自身の問題意識)

 では西郷自身はどのような問題意識を持っていたのであろうか。

 西郷は、1868年秋以来、鹿児島に帰り、しばらく湯治などで羽を休めた後、鹿児島藩の顧問、大参事として、藩政改革にいそしんでいた。もっとも政府からは度々出仕の要請があり、その都度断っていたものの、政府の動きはウォッチしていたものと思われる。
 そんな西郷のもとを訪れ、その話を直接聞いた人物がいる。英国公使館書記官アダムズである。アダムズは、1871年1月9日から1週間ほど鹿児島に滞在し、情報収集を行っている。アダムズによると、西郷の側近の有力者(実は弟従道であった。)を通じて、西郷の考えを聴取したとのこと、パークス公使に『薩摩藩の現状』とタイトルを打った覚書を提出している(1871年2月8日付パークスの本国外務省への報告書添付文書)。それによると西郷は次のとおり語ったとのことである。

 「中央政府は混乱を極めている。あまりに違った意見が多すぎる。今日有る計画が採用されても、明日になると別の計画が採用される(朝令暮改)。何人かの公卿たちがあまりにも強大な勢力を持ち過ぎている。かれらはまったく実務の経験がないので、右顧左眄するだけであり、その結果何事もなしえない。莫大な金が無駄に消費されている。このような制度がつづくならば、日本は一文無しの国になり下がるおそれがある。」
 「鉄道建設は、江戸・横浜間の短距離なら異議はない。しかし政府の手持ち金はわずかなのだから、長距離の鉄道建設は図るべきではない。もっと別の政策に力を注ぐべきである。」
 「あまりにも重税が課せられているために、その日の暮らしにも困る国民の利益のために、他に実行すべきもっと重要な政策がいくらでもある。」


 西郷は、多少控えめに語ったようだ。アダムズより3カ月前に、庄内藩の藩士一行40名程が鹿児島藩を訪問、西郷と面談している(藩士の中には、戊辰戦争の際に、西郷の寛大な処置に感動し、西郷を慕う人たちが多かったようである。)。彼らに西郷が語ったことは、もっと辛らつである(庄内藩士犬塚勝弥の藩主酒井忠篤に提出した報告書『薩州滞留中の大略』。)。

 「朝廷のお役人は何を致しておりそうろうと思いそうろうや、多分は月給を貪り、大名屋敷に住居致し、何一つ職事あがりもうさず、悪しく申せば泥棒なり。」
 「文明開化と申す事は、はばかりながら当今の勢いに御座なくそうろう。右手に筆をとり、左手に剣をおさげなされそうろうお気持ちにて、今一度御革政遊ばされそうろう上に、自然文明の勢いに立ち至るべきことと申されそうろう。」


 さて、アダムズが鹿児島を去って約1カ月、1871年2月7日、勅使岩倉具視(大納言)が、鹿児島入りし、西郷に政府に出仕することを求めた。これに応えて、西郷が決断を下して、上京するのは、3月21日のことであった。

                          (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(1)

はじめに

 最初に確認しておきたことがある。それは次の二点である。

 一点目 明治維新は革命であったのか。

 これは古くから論争テーマであった。
 まず、マルクス主義者らの争い。講座派と言われるマルクス主義者(戦前、岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』を執筆したグループ及びこれを継承した人たち)は絶対主義(封建地主階級と資本家階級の両者に基礎を置きつつ、それらからは相対的に自立した天皇制官僚による支配)への転化であったと説き、また労農派はと言われるマルクス主義者(戦前の雑誌『労農』の寄稿者グループ及びこれを継承した人たち)は、不徹底なブルジョア民主主義革命であったと説く。
 次に、世界史的に見る革命のイメージからくるもの。革命とは、フランス革命やロシア革命、あるいは中国革命のように、下からの大衆的参加による社会変革というものであり、王政復古の大号令とともに始まった上からの変革という歴史的経過を持つ明治維新は、そのイメージから遠い。実際、「明治維新」を、英語で表現すると、“Meiji Restoration”である。

 しかし、土地に緊縛され領主に隷属した農民の解放、旧支配階級である世襲坐食の武士と封建領主の廃絶、四民平等と自由、法治主義への転換など巨大な変革をもたらした明治維新は、誰がどう言おうと革命であった。

注:坐食とは働かないで飯を食うという意味。

 二点目 大西郷(大西郷とは西郷隆盛のことである。明治維新において果たした役割の大きさと弟の従道と区別すること、その両者の意味をこめて大西郷と呼ぶ。しかし、以下では単に「西郷」と言う。)は士族の権益擁護と支配温存を第一義としたのか。

 この点については以下のことを指摘しておこう。

 まず旧藩主の父・島津久光の「建白書」と「罪状書」。

 「建白書」は1872年7月27日、西国巡幸で、鹿児島を訪れた天皇に久光が提出したもの。その中に、西郷が筆頭参議として推し進める最近の政府の施策を、共和政治の悪弊に陥っていると激しく攻撃する文言があった。
 「罪状書」は、1872年12月、久光が、西郷に直接つきつけたもの。全部で14ヶ条に及ぶが、その中に、士族から武器をとりあげたのはけしからん、脱刀・散髪を認め、士族・庶人間の通婚を自由にしたことは風俗を乱す、四民平等としたことの処置は国威に関係する重大事であるなどという項目がある。つまり西郷は士族を貶めていると言うのである。

 次に、西郷は、士族の切り捨ての究極策である「秩禄処分」を推進したこと。遣外欧米使節団に加わり、アメリカに滞在している筈の大久保利通に送った1872年3月23日付書簡で、廃藩置県の事後処理である藩札消却がうまく進んだこと、この機会に家禄消却もやってしまうべく米国から3000万ドルの外債借入れを決めたことを伝え、「この機会を失うべからず、両全の方法」と自賛している。

 要するに西郷は、1871年8月11日、参議として政府に加わって以後、まさに廃藩置県を実現し、封建制度を改革し、近代化政策を推し進める責任者(筆頭参議)として、士族の権益と支配を掘り崩し続けていたのである。

 さてこの小論では、「明治六年の政変」の意味、西郷が何をめざしたのかを順次説いていくことにするが、私にとって導きの糸となったのは、政変後2年も経ない1875年9月、政府が江華島事件を起こしたとの報を聞くや、西郷は、「何分にも道を尽くさず、ただ弱きをあなどり強きを恐れそうろう心底より起こりそうろうもの」、「樺太の紛議拒まんがために事を起こしそうろうもあい知れず、或いは政府既に瓦解の勢いにて、如何ともなすすべ尽き果て、早くこの戦場を開き、内の憤怒を迷わしそうろうものか、いずれ術策上より起こりそうろうもの」「遺憾千万」と憤慨した(篠原冬一郎宛て1875年11月5日付書簡)事実である。これが世上言われる征韓論者の発する言葉であろうか?

                           (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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