対日占領体制  その7

2 対立と協調のはざまで(続)

(事実上の単独占領体制)(続)

 占領体制の問題は、イタリアに始まり、東欧の枢軸諸国とドイツをめぐりめぐって、日本がその終着点になったのであるが、それは有終の美を飾ることはできなかった。対日占領体制は、分割占領となったドイツはさておき、イタリアに比しても、東欧の枢軸諸国に比してもグロテスクなものとなってしまった。イタリアでは連合軍は米英二カ国の軍隊が統合参謀長会議の下に戦い、米英両国が共同占領し、ソ連は事実上オブザーバーとされたのであった。東欧の枢軸諸国では連合軍と言ってもそれはソ連軍単独であり、ソ連が単独占領し、米英両国は事実上のオブザーバーであった。しかし、日本では、連合国軍は、アメリカ軍だけではなく、イギリス軍も、中国軍も、ソ連軍も連合国の一員として戦った。アメリカの単独占領、英ソ中の各国はオブザーバーというのは筋が通らない。ましてやアメリカはしきりに東欧枢軸諸国の占領体制に非を鳴らし、実質的参加を求め続けていたのであるから。

 実はアメリカも、主導権をいかに確保するかに腐心しつつも連合国の共同占領の方策を検討していた。そのことはSWNCC70シリーズの文書に痕跡を留めている。また軍部レベルの検討過程では、日本分割占領案も起案されている(JCSの下部機関である「統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee JWPC)」のJWPC385-1「日本および日本領土の最終的占領」)。しかし、これらは最終的には却下されてしまった。
 さらに対日占領体制として、米英中の三カ国、ソ連参戦した場合にはソ連も加えた四カ国を常任国とする「太平洋・極東高等委員会」を設置し、日本の戦後処理から戦争終結後の太平洋・極東地域の諸問題の調整など勧告行う権限を付与する案が検討されていた(SWNCC65-1)。しかし、その後の検討過程で、「太平洋・極東高等委員会」構想は、単なる諮問機関に過ぎない「極東諮問委員会(Far Eastern Advisory Commission FEAC)」に矮小化されてしまった。

 このようにして、しかも他国と何らの協議をすることもなく、アメリカが、事実上の単独占領体制を決めてしまったことは、どうやらこれまでの共同行動の原則、更には、米英ソ中、それに仏を加えた五大国が安全保障委員会の常任理事国として国際連合という包括的国際機構を仕切り、国際社会の平和、安定、正義を守るとう理想から離れ、アメリカが一部の同盟国とともに安全保障体制を確立するのだという安全保障戦略に転換しようとしていることを示しているようだ。

 かつてアメリカはモンロー主義の国として知られていた。ウイルソンは、第一次大戦後の国際社会のあり方、平和原則をかの「ウイルソンの14箇条」のとして提言し、国際連盟による平和維持を謳いあげた。しかし、モンロー主義の伝統を墨守せんとする国内保守派に厳しい足かせをかされ、国際連盟に加盟することさえできなかった。ルーズベルトは、アメリカを、ナチズム、ファシズム、軍国主義と戦う陣営に参加するために、このモンロー主義と対峙しつつ、ステップ・バイ・ステップで、歩みを進めてきたことは既に述べたとおりである。
 しかるに直接戦争の当事者となって4年にもならないのに、アメリカも、巨大な軍事力を持つに至り、軍事優位の思想と政治に絡みとられてしまったようだ。アメリカが世界の警察官になる布石は、この段階で打たれたといってよい。

 注: ウイルソンの14箇条・・・1918年1月8日、ウッドロー・ウイルソン大統領が、年頭教書演説で、第一次大戦後の国際社会のあり方を、14箇条に整理し、提言したもの。以下のとおり。
① 講和の公開、秘密外交の廃止
② 公海の自由
③ 公正・平等な通商関係
④ 軍備の縮小
⑤ 植民地問題の公正な措置
⑥ ロシアからの撤兵とロシアの自由選択
⑦ ベルギーの主権回復
⑧ アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還
⑨ イタリア国境の再調整
⑩ オーストリア=ハンガリー帝国の民族自決(オーストリア=ハンガリー統治下の諸民族の自治の保障)
⑪ バルカン諸国の独立保証
⑫ オスマン帝国支配下の民族の自治保障とダーダネルス海峡の自由航行。
⑬ ポーランドの復活・独立の承認
⑭ 包括的国際機構(国際連盟)による平和維持

対日占領体制  その6

2 対立と協調のはざまで(続)

(2)対日占領体制
  
(事実上の単独占領体制)

 アメリカ国務省が、日本の戦後処理に関する研究に着手したのは1942年8月、知日派と言われる日本の政治・文化に精通した人たちを集めて特別調査部に極東班を置いてからのことである。
 極東班は、従前の外交関係協議会・極東グループの先行研究を引き継ぎ、領土処理、戦犯問題、占領の範囲と期間、占領軍の国家的構成、占領軍政の権限、天皇制の取り扱いをはじめとする戦後日本の政治・経済のあり方などの基礎的研究を進め、1943年6月頃までに多くの実りある成果をあげた。
 それらの研究成果は、政策決定機構・・・当初は国務長官を長とする「戦後対外政策に関する諮問委員会」(主としてその下部組織である「領土小委員会」)、1944年2月からは国務長官を議長とする「戦後計画委員会(Post-War Programs Committee PWC)」(主としてその下部組織である「国と地域委員会(」(Interdivisional Country and Area Committee CAC)」・「極東に関する地域委員会(極東地域委員会)」)、1945年1月以後は「国務、陸軍、海軍三省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee SWNCC)」(その下部組織である「極東小委員会(Subcommittee for the Far East SFE)」と「統合参謀会議」(Joint Chiefs of Staff JCS)及び「統合計画参謀(Joint Staff. Planners JPS)」等その下部機関)・・・で具体的に政策文書化される段階で、変容を免れなかったが、そのエッセンスは最終文書に至るまであとを留めていると言ってよい。

 具体例をあげてみよう。対日占領政策の根幹を扱った一連の文書はSWNCC150シリーズ「日本降伏後の米国の初期対日占領方針」として知られているが、そのエッセンスは、上記極東班で起案した「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」であった。そこには領土についてはカイロ宣言を予告する内容が、軍事面では非軍事化が、経済面では軍事につながる重工業は抑制されるものの戦後の国際経済への復帰は認めることが、さらには他国の権利を尊重する政府を樹立すべきことなどが示されていた。
 SWNCC150-1は、SWNCCで6月11日採択されたものであるが、①日本国の主権の及ぶ範囲、②武装解除と軍国主義者の一掃、③自由と人権の尊重、民主主義の奨励、民主主義勢力の助長、④経済の非軍事化、⑤平和的経済活動の再開などが掲げられている。これらの項目を見るだけでも、ポツダム宣言の基礎となっていることがわかる。

  注: ポツダム宣言

   第1項から第5項は降伏勧告と警告。第6項から第12項の要約ないし抜粋は以下のとおりである。
 ⑥ 「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。」
 ⑦ 我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点を占領。
 ⑧ カイロ宣言の履行。「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られる。」
 ⑨ 日本軍は武装解除。各自は、「家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。」
 ⑩ 戦争犯罪人の処罰。「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。」
 ⑪ 経済復興すること、軍事以外の生産手段を保有すること、将来国際貿易に復帰することが許可される。
 ⑫ 「日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。」
「この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。」
 第13項は再度の警告に続いて「我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。」として、第10項とともに国家機構、政府を解体せず、直接統治(軍政)をしくものではないことを明示している。


 ところでSWNCC150-1では、直接軍政がしかれることが明示されていた。この部分は、ポダム宣言で間接統治とされたのを受けて、間接統治に書き改められた。その上で、8月31日のSWNCCは、これを確定し、9月6日に大統領が承認を与えた(22日国務省が発表)。

 そのSWNCC150-4Aでは、「軍事占領」の項として、以下のように記述されている。

 「降伏条項ヲ実施シ上述ノ究極目的ノ達成ヲ促進スル為日本国本土ハ軍事占領セラルベシ右占領ハ日本国ト戦争状態ニ在ル聨合国ノ利益ノ為行動スル主要聨合国ノ為ノ軍事行動タルノ性質ヲ有スベシ右ノ理由ニ因リ対日戦争ニ於テ指導的役割ヲ演ジタル他ノ諸国ノ軍隊ノ占領ヘノ参加ハ歓迎セラレ且期待セラルルモ占領軍ハ米国ノ任命スル最高司令官ノ指揮下ニ在ルモノトス協議及適当ナル諮問機関ノ設置ニ依リ主要聨合国ヲ満足セシムベシ日本国ノ占領及管理ノ実施ノ為ノ政策ヲ樹立スル為有ラユル努力ヲ尽スベキモ主要聨合国ニ意見ノ不一致ヲ生ジタル場合ニ於テハ米国ノ政策ニ従フモノトス」
 (出典:日本政治・国際関係データベース/政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所)
 
 これは、事実上、アメリカによる単独占領体制をとることを示している。

対日占領体制  その5

2 対立と協調のはざまで

 アメリカにおいて、戦後処理と戦後の国際社会のあり方について、その具体的細目の研究と政策化がどのように進められたか、それにより得られた成果如何は、重要なテーマであるが、それについて述べることは割愛する。
 ここでは、論点を、それが日本に関連してどう具体化されたか、つまり対日占領体制の開始とその展開に絞りたい。

(1)ヤルタからポツダムへ

 イタリア問題に発端する米、英、ソ三カ国の対立の芽は、上に見たように協調体制維持の努力によって抑えられていたが、1944年秋以後、イタリア問題を裏返しにしたように進められた東欧の枢軸国諸国の戦後処理と、ソ連寄りのポーランド政権の確立によって、一気に芽を吹いてしまった。米英両国がイタリアで示した勢力圏確保の本音、ルーズベルトがとった領土を駆け引き材料とする交渉手法が、スターリンの大国主義的野望をかきたててしまったようである。
 ルーズベルトは、それを何とか押さえ込もうと躍起であった。ヤルタ会談は、ルーズベルトの米英ソ協調体制維持のための最後の試みであったと言ってよい。

ヤルタ会談(1945年2月4日から11日)

 ヤルタ会談は、ソ連のクリミヤ半島の保養地ヤルタに、ルーズベルト、チャーチル、スターリンが一堂に会して行われた。この会談で合意された主な内容は以下のとおりである。

① 国際連合の設立について・・・来る4月25日にサンフランシスコで国際会議を開催し憲章を採択すること。安全保障理事会は米英ソ中仏の五大国に拒否権を認めること。
② ドイツの戦後処理問題いついて・・・EACでの協議を踏まえ、あくまでも無条件降伏を貫徹すること、米・英・ソ・仏の四カ国で分割占領管理とすること。
③ 東欧諸国問題について・・・ポーランドの臨時政府を民主的基盤のうえに改造し、すみややかに自由選挙を行うこと、ドイツから解放された諸国に主権と自治を回復させ、民主的な政府を樹立させること。これは「解放ヨーロッパに関する宣言」と呼ばれている。
④ 極東問題について・・・一つは有名な「ヤルタ秘密協定」で、ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦することを約し、アメリカ、イギリスはその見返りとして、イ.外蒙古の現状維持(モンゴル共和国の承認)、ロ.ポーツマス条約で喪失したロシアの旧権益の回復、ハ.千島の引き渡しなどを約した。
 もう一つは台湾、朝鮮問題で、台湾は中国へ返還、朝鮮は、当面の間連合国の信託統治とすることを確認した(後に北緯38度線を境に暫定的に南側をアメリカ、北側をソ連へと分割占領にすることとなった。)。

 注: ヤルタ秘密協定
  「三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し且つヨーロッパにおける戦争が終結した後二箇月または三箇月を経て、ソヴィエト連邦が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した。
(一)外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持する。
(二)1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復される。(イ)樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する。(ロ)大連商港を国際化し、この港におけるソヴィエト連邦の優先的利益を擁護し、また、ソヴィエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権を回復する。(ハ)東清鉄道及び大連に出口を提供する南満州鉄道は、中ソ合併会社を設立して共同に運営する。但し、ソヴィエト連邦の優先的利益を保障し、また、中華民国は、満州における完全な利益を保有するものとする。
(三)千島列島は、ソヴィエト連邦に引渡す。
  前記の外蒙古並びに港湾及び鉄道に関する協定は、蒋介石総統の同意を要する。大統領は、スターリン元帥からの通知により、この同意を得るために措置を執る。
  三大国の首班は、ソヴィエト連邦のこれらの要求が日本国の敗北した後に確実に満足されることを合意した。
  ソヴィエト連邦は、中華民国を日本国の束縛から解放する目的で、自国の軍隊によりこれに援助を与えるため、ソヴィエト社会主義共和国連邦と中華民国との間の友好同盟条約を中華民国政府と締結する用意があることを表明する。」
   (出典:日本政治・国際関係データベース/政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所)


 ヤルタ秘密協定は大西洋憲章、カイロ宣言に反するものであった。スターリンが旧ロシア帝国の権益回復を策し、それにルーズベルト、チャーチルが追随する、それに加えて千島がソ連に引き渡される、このような秘密の取りきめが連合国の大義をふみにじるものであったことは明らかである。
 ヤルタ会談は、国際連合の常任理事国となる五大国に拒否権を認めたこと、及びヤルタ秘密協定を取り交わしたことで、ルーズベルトの理想、平和、安定、正義の新国際秩序構想を色褪せたものにしてしまったと言ってよい。

 ヤルタ会談の後、ソ連はポーランドでの自由選挙を約しながら、自己の影響下にあるルブリン政権に肩入れし、ロンドン亡命政府側の要人を弾圧したとしてアメリカ、イギリスから厳しい非難を受けた。東欧の枢軸諸国、即ちブルガリア、ルーマニア、ハンガリーにおける占領体制についても米英側の代表者がACC(Allied Control Commission。イタリアと同じ形態。)のメンバーに名を連ねてはいたが、これらの委員会は開店休業状態である(もっともこれはイタリアと裏表の関係になっていた。)。しかし、ドイツ占領はヤルタ会談で確認した線に沿って協調的に進めていたし、極東では対日参戦の準備を進めている。総じて、ヤルタ体制と言われる戦後処理のスキームを一応は守ろうとしているように思われた。
 アメリカ、イギリスの国内世論も対ソ強硬論一色に染まったわけではなく、ルーズベルトの理想論はなお大きな支持を得ていた。戦後の平和、安定、正義の新しい国際秩序を構築しようという呼びかけは未だ生命力を持っていたのである。そしてそのために、大国ソ連を孤立させるわけにはいかないと多くの人は考えた。それにアメリカにとって、ソ連の対日参戦は、犠牲を少なくして対日戦に勝利するには不可欠のことと考えられていたし、大国間の勢力圏の取極めと勢力均衡論に親和的な思想も根強い力を持っていた。
 このような状況のさなかの4月12日、ルーズベルトが死去し、トルーマンが大統領に就任した。彼は、ルーズベルトのような理想主義者ではなく、また外交経験も乏しいために、基本的にはルーズベルトの敷いたレールの上を走るほかはなかったのであるが、国内で頭をもたげ始めていた対ソ強硬論者の影響を被ることも免れなかった。

 ポツダム会談(1945年7月17日から8月2日)

 ポツダム会談は、ドイツのソ連占領地域内のポツダムに、トルーマン、チャーチル、スターリンが集まり、開催された。この会談が始まるに先立つ7月16日、現地入りしていたトルーマンの下に、原爆実験に成功したとの第一報があり、さらにその威力の程度、実戦配備が可能となったことなど続報として届き、タフ・ネゴシエーターのスターリンとの会談を前に、足をすくませていたトルーマンは鼓舞されたに違いない。
 ポツダム会談と言えば、日本では、ポツダム宣言ということになるが、それはアメリカが用意した対日降伏勧告の文案を、トルーマンがチャーチルと協議して確定させたる作業がなされたに過ぎず、三カ国首脳会談であるポツダム会談の対象事項ではなかった。
 ポツダム会談ではこれまで見てきた戦後処理問題をはじめ、現在ヨーロッパの直面している実に広範な問題が話し合われ、合意に達した事項についててポツダム協定が取り交わされたのである(ポツダム宣言は、長文の協定に「補遺」として掲げられている附属議定書2のBにとりあげられている。)。それについて述べることは割愛する。
 ここに至り、対立は沸点に達した感があるが、トルーマンもスターリンも、この時点ではまだなんとか踏みとどまろうとはしていた。しかし、もはや修復は困難な地点に至ってしまっていたのかもしれない。
 それにしてもルーズベルトならば、もう少しうまくマネージできたであろうに。スターリンにとっても、トルーマンにとっても、チャーチルとあとを引き継いだアトリーにとっても苦い夏の思い出になってしまったことだろう。

対日占領体制  その4

1 戦後プロジェクトの構想―戦後処理と戦後の国際社会のあり方(続)

 イタリア占領体制をめぐって生じた米英ソ三国の協調体制のほころびをつくろう目的で、1943年10月から12月にかけて、モスクワ外相会議、カイロ会談、テヘラン会談があいついで行われた。

・モスクワ三カ国外相会議
 
 モスクワ外相会議については既に触れたが、アメリカの国務長官ハルの主導の下に、ハル、イーデン、モロトフがモスクワで一同に会し、1943年10月19日から10月30日まで、行われた。イタリア問題については三者の妥協により決定的な対立を回避したほか今後のヨーロッパ戦後処理については創設されたEACにおいて恒常的に協議することが確認され、米英ソの協調体制は維持された。

 モスクワ外相会議では、以下の四つの共同宣言が出された(1943年11月1日発表)。

① イタリアに関する三カ国共同宣言(前述したとおりバドリオ政権に対して政府の民主化、民主的自由の確立など要求するものとなっている。)
② オーストリアに関する三カ国共同宣言(「1938年3月15日にドイツによって強制された併合は無効であるとみなし」「自由,独立のオーストリアの再建を望む」)
③ ドイツに関する三カ国宣言(「残虐行為などに責任あるナチス党員らは、それぞれの行為の行われた国に送り、裁判し、処罰される」ことを宣言)
④ 中国を加えた米英ソ中「四カ国共同宣言」(ほころびかけた共同行動の原則を再確認)

 最後の四カ国共同宣言では「戦争遂行のため誓約した四国の団結した行動は、平和と安全の組織と維持のため続けられる」とし、第二次世界大戦の終結までは勿論、終結後においても米英ソ中四カ国は協力共同する決意を宣命し、国際社会の平和、安定、正義のため国際連盟に代るべき包括的国際機構設立の構想を公式に表明した。この包括的国際機構設立構想は、1944年8月~10月のダンバートン・オークス会談とそのとりまとめ文書(ダンバートン・オークス提案)、1945年2月のヤルタ会談を経て、同年4月から6月、サンフランシスコで開催された連合国国際会議で、国際連合憲章の採択と国際連合の設立に結実する。
 
・カイロ宣言(1943年12月1日
  
 上記のモスクワ四カ国共同宣言を受けて、1943年11月22日から27日の間、エジプトのカイロで、アジア・太平洋地域でともに日本と戦う中国の蒋介石を交え、ルーズベルト、チャーチルの三首脳会談が行われた。そこでは極東情勢が主なテーマとなり、12月1日、対日戦争に関して、以下の声明が公表された。これを一般にカイロ宣言と呼んでいる。

 「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ

 各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ
 三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ
 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
 日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ
 (出典:国立国会図書館のデジタル資料)

  注: カイロ宣言では、日本の戦後処理において、その領土をどう取り扱うか関する  骨格を示している。しかし、「千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル 一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スル」、  「日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」とある地域の解釈、その具体的取り扱  いは、明白ではなく、会談中に、ルーズベルトが琉球諸島を中国に「返還する」意向を示し、蒋介石が婉曲に断る場面も見られる など、ルーズベルトの意図と認識はあいまいであった。
  
・テヘラン会談
  
  カイロ会談を終えたルーズベルトとチャーチルは、その足で、スターリンの待つテヘランに駆けつけ、第二次大戦後初めての三国首脳会談に臨んだ。会談は、11月28日から12月1日にかけて行われた。その結果以下のことが確認された。これら大半はスターリンの要求に沿うものである。

・ ユーゴスラビアでドイツ軍と戦うパルチザン勢力に対し、物資や兵器の補給による支援、側面支援作戦を展開すること。
・ トルコが年内に連合国側で参戦することが望ましいこと。トルコがドイツの侵攻を受ければ、ソ連が支援すること。
・ フランスへの連合国軍の上陸によってヨーロッパにナチス・ドイツに対する第二戦線(西部戦線)を形成すること。
・ 米英ソ三大国の軍参謀が以後の作戦で緊密に連絡を取り合うこと。
・ 戦後のポーランド国境は、西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線とすべきだということ。

  注: テヘラン会談中に行われたルーズベルトとスターリンの記録をとらない会談で、 スターリンから「樺太の返還」、「千島諸島の引き渡し」を要求されたとルーズベルトが明かし、同行したハリマン駐ソ大使もスター リンからポーツマス条約破棄の希望が示されたと述べているが、真偽のほどは何とも言えない。ルーズベルトは、カイロでの蒋介石に 対する琉球発言とあいまって、領土問題を取引材料にしていたことは明らかで、ルーズベルトが持ちかけ、スターリンがその気になってしまった可能性も否定できない。
  しかし、その後、モスクワに帰任したハリマン大使が、同年12月14日、ルーズベルトの指示により、スターリンに面会し、対日参戦のための政治条件を訪ねた際、スターリンは、次の条件を示したとされている。スターリンの要求は、ポーツマス条約の白紙 還元プラス千島獲得であることがこの時点で明白になったと言える。
  ①千島列島と南樺太の返還、②旅順・大連を中心とする遼東半島南部の租借権の回復、③大連からハルピン、および満州里 からウラジオストックに至る東支鉄道の租借、④外蒙古の現状維持(モンゴル共和国の承認)

対日占領体制  その3

1 戦後プロジェクトの構想―戦後処理と戦後の国際社会のあり方(続)

(逆風に抗して)
   
 連合国側の反転攻勢により、戦局の支配が連合国側に移り、戦後処理の問題が現実化するにつれ、米英ソの対立場面が表れることになった。
 最初の試練はイタリア問題であった。1943年9月、イタリアの占領体制をめぐってのアメリカ、イギリス側とソ連との対立が表面化したのである。このイタリア問題は、歴史を振り返ると、冷戦へのターニング・ポイントであったと言っていいかもしれない。
 
 ここでイタリア問題の概要を説明しておこう。

 枢軸国側でいち早く楔を打ち込まれたのはイタリアであった。1943年7月25日、クーデタによりムッソリーニ政権が崩壊し、バドリオ政権が成立すると、同月末、既にシチリアに上陸していた地中海域連合軍(アイゼンハワー最高司令官)のもとに、休戦交渉の申し入れがなされた。このとき前のめりになったのは、チャーチルだった。チャーチルは、ルーズベルトを引き込んで、バドリオ政権にイタリア・コミュニズムの封じ込めの役割を期待し、ソ連との協議なしに、休戦協定の交渉を急がせた。
 これより先、同年7月1日、イギリス外務省は、無条件降伏、英米ソ協調を前提とした占領管理構想(枢軸国ごとに占領軍司令部をもうけ、英米ソ三国の代表者が持ち回りで議長を務める連合国間休戦委員会をもうける。その上に全欧レベルの管理機関であるヨーロッパ連合国委員会をもうけ、個別の連合国間休戦委員会を指導する。ヨーロッパ連合委員会には、米英ソ仏代表者による全員一致制の運営委員会が設けられる。)を米ソ両国に提案していた。アメリカは、この構想に、ルーズベルトが賛意を寄せたが国務省レベルではヨーロッパ地域主義のにおいをかぎ取り、慎重検討の姿勢であった。ソ連は、いち早く賛成していた。
 ソ連は、この米英両国が進めるイタリア休戦交渉の動きを独断専行と批判、8月22日、米英ソ三国代表者により構成される軍事・政治委員会(Militarya Political Commission MPC。これは実質的にはイギリスが7月1日に提起したヨーロッパ枢軸国の占領管理構想にあった連合国間休戦委員会と同じである。)をアルジェもしくはシチリアに設置し、イタリアとの交渉と休戦管理にあたらせることを提案。
 米英側は、一旦は、ソ連提案に応じ、9月下旬、MPCをアルジェに置くことに同意した。休戦協定についても、ソ連の承認のもとに、バドリオ政権との間で、9月8日、軍事問題に限った軍事休戦協定を結び、引き続いて、9月29日、政治的・経済的・財政的諸条項を含む本休戦協定を結ぶ運びになった。

 注: 軍事休戦協定が締結されるやドイツ軍が進出し、ムッソリーニを救出して、イタリア北部を占領。ムッソリーニはドイツ軍占領下にあった地域に「イタリア社会共和国(サロ共和国)」を樹立したため、イタリアでの戦闘はなお続いた。

 本休戦協定では、連合国最高司令官の「指令と全般的指導」の下で、政治・外交・金融・商業・貿易・生産等広範囲にわたって強力な権限を有する連合国管理委員会(Allied Control Commission ACC)を設けることが定められていた。これについて、ソ連は、MPCが設けられる以上、ACCはこれと矛盾するので不要だとした。米英は、ソ連案では、占領行政を執行する連合国最高司令官の権威が損なわれる事態に至ること、つまり連合国最高司令官がソ連の意向を無視できなくなることを危惧し、これに反対、ACCは、イタリアの特殊問題を連合国最高司令官の指揮下で扱うのに対し、MPCは「ドイツとの関係を断つ」諸国との休戦・降伏の「交渉にかかわる諸問題を検討し」、助言をする機関であると説明した。つまりMPCを占領行政の執行には関わらない単なる助言機関だとし主張したのである。こうしてこの紛議は、10月19日から10月30日まで、モスクワで行われた米英ソ三カ国外相会議の場に移されることになった。

 モスクワ外相会議では、イーデンは、MPCの機能を、①全ヨーロッパのレベルでドイツから離脱する枢軸国との交渉を扱う機能、②イタリアの休戦(占領)管理に関わる機能に区分し、①については、ロンドンにヨーロッパ諮問委員会(European Advisory Commission EAC)を設置する、②については連合国間諮問理事会( Advisory Council on Italy AdCI)を設置し、休戦(占領)管理において軍事作戦終了するまではACCの議長たる連合国最高司令官の助言機能を果たし、軍事作戦終了後には休戦(占領)管理の執行権を引き継ぐという整理をした。ハルは、これに同調したが、モロトフは反対した。ハル、イーデン、モロトフは、激しく議論を戦わした。が、話の落とし所はわきまえていたようだ。
モロトフは、イタリア北部のレジスタンス勢力の国民解放委員会による最終的決着に期待をかけつつ、バドリオ政権に対して政府の民主化、民主的自由の確立など要求する米英ソ三カ国共同宣言を出すことを求めた。ハル、イーデンも、全イタリアにソ連の影響力が及ぶことを懸念しつつも、上記の整理をモロトフが受け入れる見返りにこれに同意した。かくしてモロトフも譲歩することとなった。
 このようにして、全ヨーロッパ・レベルでのEAC、イタリアにおけるAdCIという形で、連合国側の共同行動の形が維持されることになった。AdCIは、米英ソ三国代表者のほかフランス(国民解放委員会)、ギリシャ、ユーゴスラビアの代表者も加わり、その役割は、当面は、ACCの議長たる連合国最高司令官(アイゼンハワー)に助言を与えることであった。

 AdCIの各国代表者がアルジェに到着した11月下旬、ACCの構成をめぐって再び米英ソ間で再び悶着が生じた。ソ連代表者は、ソ連代表者とフランス代表者もともにACCのメンバーになる権利があると主張、フランス代表者もこれに同調した。しかし、結局、双方ともオブザーバーとしての参加しか認められなかった。彼らは、神棚にまつりあげられてしまった、一方、AdCIは単なる諮問機関に過ぎず、実質的には開店休業状態であった。かくてイタリア占領は、米英による排他的占領であることがはっきりした。さらにソ連が頼みの綱としたイタリア共産党をはじめとするレジスタンス勢力も政権獲得には至らなかった。スターリンは、地団太を踏んだかどうかはわからないが、きっと米英への不信感を心中深く潜ませることになったことであろう。

 しかし、米英ソとも未だドイツ、日本と熾烈に戦っている最中であったこともあり、協調体制のほころびを拡大させず、共同行動を発展させる努力を続けた。1943年10月~12月における諸会談とその会談後の共同宣言や声明はそうした時期における努力の表れで、従前の構想をより具体的に示すものとなっている。
 それについては次回に見て行くことにする。

プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。2018年1月、弁護士登録抹消の請求が承認され、41年間の弁護士生活にピリオドを打ちました。しかし、これからも社会正義の話を、青臭く、続けようと思います。

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