「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その11

GHQ草案交付後の幣原の逡巡は何を意味するか

 日本国憲法制定史の研究者古関彰一は、「右往左往を続けた幣原と、説得を続けたマッカーサーとが、のちに『戦争放棄の発案者は幣原だ』と豹変した」と述べ(『日本国憲法の誕生 増補改訂版』・岩波現代文庫2017年4月刊)、9条の起源は幣原の提案にあるとの説を厳しく批判している。

 その批判の根幹をなしているのは、GHQ草案交付後、受け入れの閣議決定に至る間の、幣原の対応である。同書と『平和憲法の深層』(ちくま新書・2015年5月刊)から抜粋すると以下のごとくである。

① 1946年2月13日GHQ草案交付後、同月19日閣議までこれを秘匿し、同閣議で、その他の閣僚とともに「我々はこれを受諾できない」と述べたことをはじめ、幣原は、終始逡巡し、消極的な姿勢をとり続けた(『芦田均日記』第1巻・岩波書店)。

② この閣議後の同月21日、幣原はマッカーサーを訪ね、3時間に及ぶ会談をしているが、その模様が翌22日の閣議で報告された。幣原が報告したマッカーサーとのやりとりは、芦田厚生大臣によって次のように筆録されている(前同書)。

 「吾輩は日本の為めに誠心誠意図って居る。天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じている。幣原男(ママ)国の為めに誠意を以て働いておられることも了解している。しかしFar Eastern Commission(極東委員会)のWashingtonに於ける討議の内容は実に不愉快なものであったとの報告に接してゐる。それは総理の想像に及ばない程日本にとって不快なものだと聞いてゐる。自分も果たしていつ迄此の地位に留まりうるや疑はしいが、其後がどうなるかを考へる時自分は不安に堪えぬ。
 ソ聯と濠州とは日本の復讐戦を疑惧して極力これを防止せんことを努めている。・・・吾等がBasic Forms(ママ)といふのは草案第1条と戦争を抛棄すると規定するところに在る。・・・戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思う。」 
 幣原は此時語を挿んでLeadershipと言はれるが、恐らく誰もFollowerとならないであろうと言った。
 Macarthurは、
 「Followerが無くても日本は失ふ処はない。之を指示しないのは、しない者が悪いのである。・・・」

 
 幣原が提案したのであれば、何故、このような教えをマッカーサーから受けなければならないのか。

 その閣議でGHQ草案受け入れを決めたが、閣議出席者の入江俊郎内閣法制局次長は、後に前述の憲法調査会で、「幣原は『(GHQの)交付案で、先方の一番の眼目は、天皇の象徴の規定と戦争放棄の規定である。全然このようなことなどは、そのときまで日本は考えたことがなかったといっていいと思う』と言った」と述べている(憲法調査会編「憲法制定の経過に関する小委員会報告書案(第一分冊)」。

 確かに自ら提案しておきながら、それをとりいれたGHQ草案が交付されるや手のひらを返して、受け入れを逡巡し、消極的姿勢を示すなどということは通常あり得ないことである。古関が突っ込むのは、これだけを見ればもっともなことのようである。
 しかし、この幣原の不可思議な対応ぶりについては、先に引用した平野文書により、答えが出されている。再度、引用しておこう。

 「この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。

 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。」

 
 幣原が恐れたのは、戦争放棄の提案をしたことよりも、天皇大権を奪い、象徴天皇制にするということを承諾してしまったことが明らかになることであった。戦前からの連続性と断絶性とが、まさに踵を接して鬩ぎ合っていたとはいえ、天皇制については、連続性を志向する勢力、思想がはるかに優勢であった当時、天皇大権を奪い、天皇を無力化することを承諾したなどということは、いかな幣原でも、口が裂けても言えないことであったであろう。押しつけられたかのように印象操作をしつつ、次第に受け入れへと導いていった、この幣原の手法は、モラルの面で批判の余地はあっても、みごとに成功したのである。

 まとめ

 誤解のないように繰り返しておきたいが、私は、9条が幣原によってもたらされたなどと短絡しているのでないし、いわんや幣原一個人を持ちあげようという意図を持っているのでもないない。ここまでまじめに読んで頂いた読者は、あくまでも資料に基づき、事実を客観的に述べているに過ぎないことを了解されるであろう。

 私が言いたいことは次のことである。

戦後の民衆レベルでの戦争と軍への嫌悪の情と、平和の到来を歓迎し、二度と戦争を引き起こさせたくないという心情が、平和主義国建設の勅語やGHQが次々と打ち出す民主化指令を触媒として、無意識下において成長し、次第に戦争と軍備の放棄の意思へと化学変化を起こして行った。それは、民間憲法草案、幣原と昭和天皇のコラボによる「人間宣言」詔書、1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談、政府における憲法問題調査委員会での軍事関条項削除の議論と試案作成、当時の憲法学の第一人者宮沢俊義の「転向と前進」などへとさまざまな形をとって、GHQ草案と政府の「憲法改正草案」へと流れ込み、やがて来るべき第90帝国議会における歴史上類を見ないほどに自由闊達な討議と制定後の政府の新憲法キャンペーン、さらには戦後史を彩る国民的実践活動を通じて、日本国憲法第9条が国民的に受容されて行くことになる。
 幣原は、その流れをひと押ししたに過ぎない。しかし、そのひと押しは決して無視されてはならないのである。

                                (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その10

1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談―幣原の証言録

 マッカーサー回想録は、読者をひきつけるためレトリック、誇張はあるにしても、骨格部分については真実を語っていると、私は、素直に考える。

 その骨格部分とは

①幣原が、新憲法において「戦争放棄」と「軍事機構は一切もたない」との条項を設けたい、と提案した
②マッカーサーがこの提案に同意した

ということである。

 しかし、世の中には、マッカーサーは、9条を「押しつけた」との批判をかわすための弁明に過ぎないと、一笑に付す人もいないではないだろう。そこで、もう一方の当事者・幣原の証言にもあたってみたい。

 本稿の冒頭部分で引用した葉室メモは、幣原と、大阪中学校(途中で学制改革で第三高等学校となる)、東京帝国大学を通じて同級で、親友中の親友であった大平駒槌(おおだいらこまつち)が、会談当日に、会談内容を幣原から聞き、それを娘のミチ子がまた聞きして筆記したものであり、多少の疑わしさもある。

 しかし、直接幣原の語ったことを文章化した録取書となれば、話は別である。そのような文書が、実に、存在するのであった。それは自民党衆議院議員、岐阜県知事を歴任した平野三郎が作成した『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題する文書である。平野は、1949年1月の衆院選で民主自由党(1955年11月、保守合同で自民党となる。)から初当選し、同党幣原派に属し、衆議院議長に就任した幣原の秘書官を務め、幣原を師とも仰いでいる人物である。
 作成経緯は、1956年6月、内閣に設置された憲法調査会の高柳賢三会長の求めに応じて、整理し、文章化したということで、1964年2月、同会に提出され、同会事務局の「この資料は、元衆議院議員平野三氏郎が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。」との「はしがき」が付されている(国立国会図書館憲政資料室所蔵・憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)文書番号165)。

 文書は一問一答の問答式で書かれている。一部を抜粋してみよう。

問 かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第9条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答 いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問 そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。

答 それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問 死中に活といいますと・・・・・。

答 たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰してしまうことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。

そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。(略)

(中略)

問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。
 もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、(略)、豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。

(中略)

 この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
 日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。

 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
 松本君(憲法問題調査委員会委員長)にさえも打ち明けることのできないことである。

(中略)

問 元帥は簡単に承知されたのですか。

答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第9条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。

(略)

 なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。


 1960年代半ばに達せんとしたこの時期、太平洋を間に挟んだ日米の距離は、今と比べて格段に遠かった。奇しくもこの同じ時期に、洋の東西において、1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談の当事者が語り、公にされた証言が、先に示した骨格部分において、完全に一致していることが確認できた。

 平野は、正真正銘の保守政治家である。その平野が、再軍備の流れが定着し、憲法「改正」の動きが活発であった時期に、このような文書を敢えて作成し、憲法調査会に提出したことは、実に、歴史への貴重な貢献であったといってよい。
                                    
                                (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その9

1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談―マッカーサー回想録(1)

 幣原が、遅くとも1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談までには、戦争放棄と軍備撤廃の思想を成熟させ、それが「一種の魔力とでもいうか、見えざる力」となって幣原の頭を支配するに至っていたことは、以上述べたところにより確認できる。

 もう一つ、そのことを例証する事実をあげておこう。幣原は、日本国憲法制定後、繰り返し、以下原稿を用い、国民に9条への理解と賛同を求めている(幣原平和財団編『幣原喜重郎』)。

 「我国が対外関係において執り来たった行動を、冷静に、客観的に顧みてみまするならば、遺憾ながら正しい道筋を踏み誤った事実を認めざるを得ませね。・・・・・黙々として自ら省み、己を責め、如何に辛い試練でも堪え抜く決心を固めております。この自己反省のない処に不平や煩悶が起こるのであります。・・・・新日本は厳粛な憲法の明文を以て戦争を放棄し、軍備を全廃したのでありますから、国家の財源と国民の能力を挙げて、平和産業の発達と科学文化の振興に向け得られる筋合であります。従って国費の重要な部分を軍備の用に充当する諸国に比すれば、我国は平和的活動の分野に於いて、遥かに有利な地位を占めることになりましょう。」

 この文章の文言と前述の幣原が起草した「人間宣言」詔書の文言を対比してみられたい。驚くほど類似していることに気付かれるであろう。「人間宣言」詔書中の、「平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、民生の向上をはかり新しい日本を建設」、「徹頭徹尾、文明を平和に求める決意」、「産業と文運の振興のため、勇気をもって進むこと」、「人類の福祉と向上のため、絶大なる貢献」などの文言は、後に、9条への理解と賛同を訴えた文章中の「戦争を放棄し、軍備を全廃したのでありますから、国家の財源と国民の能力を挙げて、平和産業の発達と科学文化の振興に向け得られる」、「国費の重要な部分を軍備の用に充当する諸国に比すれば、我国は平和的活動の分野に於いて、遥かに有利な地位を占める」という文言と双生児と言っても過言ではない。

 かくしてようやく1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談に進むことができるようになった。

 会談時間は、正午から午後3時過ぎまでの3時間余りに及んでいる。

 『マッカーサー大戦回顧録』(中公文庫。以下「マッカーサー回想録」という。)によると、会談の模様は次のように記述されている(同書456、457頁)。

 「幣原男爵は1月24日(昭和21年)の正午に私の事務所をおとずれ、私にペニシリンの礼を述べたが、そのあと私は、男爵がなんとなく当惑顔で、何かをためらっているらしいのに気がついた。私は男爵に何を気にしているのか、とたずね、それが苦情であれ、何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないといってやった。

 首相は、私の軍人という職業のためにどうもそうしにくいと答えたが、私は軍人だって時折りいわれるほど勘がにぶくて頑固なのではなく、たいていは心底はやはり人間なのだと述べた。

 首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。

 首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。

 私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。

 現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひき起す破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。二十の局地戦、六つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時にはいっしょに、時には向い合って戦った経験を持ち、原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まっていた。

 私がそういった趣旨ことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出るときには感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』といった。」

           
                                (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その8

幣原喜重郎について

 私は、歴史は、傑出した人物によってつくられるなどという偉人史観に決して与するものではない。有名無名の民衆の営みこそが歴史を動かす原動力であり、民衆が歴史をつくるのである。しかし、ある時期、ある情勢のもとで、民衆の動向をキャッチして、ある個人がその思想を飛躍させて、思い切ってとった行動や発言が民衆の営みに跳ね返り、それによって歴史の歯車が動き始めるということは、あり得ることだと私は考える。憲法9条制定史においてもそれは同じことが言える。

 これまで、憲法学者宮沢俊義の「転向と前進」、昭和天皇の「勅語」「詔書」を検討し、幣原を登場させてきたのは、そういう趣旨である。このストーリーは、もう一人、マッカーサーを巻き込み、そうして実らせた果実を民衆が受け取り、賞味することにより完結し、歴史となる。

 さて、ここで幣原とはどんな人物か、ひととおり見ておきたい。

 幣原は、1872年生まれ、1895年東京帝国大学卒業、病気のため1年遅れて1896年10月外務省入省、朝鮮・仁川領事館領事を皮切りに外交官生活に入った。1914年12月、義兄加藤高明が、第二次大隈重信内閣の外相であったとき、日本政府が中国に突きつけた「対支21か条の要求」に対し、オランダ公使の任にあった幣原は、これを公然と批判する意見書電文を加藤外相に送っている。1915年10月、43歳で外務次官に就任、寺内正毅内閣のもとで、1917年、南満州における外交権限が軍部移管されようとしたとき、幣原は、辞表を懐にしのばせてこれに抗議している。

 1918年9月、米騒動による混乱の責任をとって寺内内閣総辞職、かわって政友会・原敬がはじめて本格的な政党内閣を組閣した。原首相は、寺内内閣の外相であり、かつ義兄でもある加藤の意に反してシベリア出兵に反対したことや国際協調外交の姿勢を評価し、あえて幣原を外務次官に据え置いた。

 幣原は、まもなく駐米大使に転じ、1921年から1922年にかけて開催されたワシントン会議で、海相加藤友三郎を補佐して協調外交を展開し、第一次世界大戦後の国際協調の時代を象徴するワシントン体制の成立に大きく貢献したことにより、幣原の平和・協調外交は、一躍、国内外に知られ、高く評価されるところとなった。

注:ワシントン会議・・・米国大統領ウォーレン・ハーディングが、1921年7月、日、英、仏、伊、中などに呼びかけ、開催された。会議期間は同年11月12日から1922年2月6日。この会議開催中の1921年11月4日、原首相が暗殺されたため、政友会・高橋是清内閣となっている。ワシントン会議では、海軍主力艦の削減を主とする軍縮条約、中国の主権・独立・領土保全、中国市場の門戸開放・機会均等などを確認した9カ国条約、太平洋地域における現状維持と紛争の話し合いによる解決を確認した4カ国条約が調印された。
 これをワシントン体制と呼んでいる。


 幣原は、憲政会・加藤高明内閣(1924年6月成立)で、外相就任。加藤没後にあとを継いだ第一次若槻礼次郎内閣(1926年1月成立)が、1927年4月、金融恐慌の拡大処理に失敗して総辞職するまで、その任にあった。この間、米国の排日移民法、中国における北伐開始、排日・民族運動の激化という困難な国際情勢の中で、平和・協調外交を一貫して進め、中国への内政不干渉の姿勢を貫いた。

 1927年4月、第一次若槻内閣瓦解。そのあとを襲い、中国干渉と武断外交を展開した政友会・田中義一内閣が、張作霖爆殺事件の処理をめぐり天皇から問責発言を受け、1929年6月、総辞職、そのあとに成立した民政党(この間に憲政会は、政友会から分裂した政友本党と合同して民政党となった)・浜口雄幸内閣(1929年7月発足)で再び外相就任。浜口首相が暗殺未遂事件により療養中は首相代理を務めた。
 その後、1930年4月、浜口首相の症状悪化、総辞職のあとを受けた第二次若槻内閣にも外相として入閣。1931年12月に総辞職に至るまで、平和・協調外交を貫いた。

 この間1930年4月にロンドン軍縮条約を調印・批准させ、1931年9月、柳条湖事件に際しても閣議で事件は関東軍出先の謀略であるというニュアンスの外務省情報を明かし、朝鮮軍を越境させ、関東軍へ増援部隊を無断派遣した現地司令官林銑十郎中将の処置について厳正な意見を述べている。

 満州事変勃発、5.15事件、2.26事件と世は狂気の支配する時代となる。日中戦争、そして太平洋戦争へと、非常時、戦時と移り行く。わが多くの国民も、偏狭なナショナリズムと戦争熱にとりつかれる。幣原平和・協調外交は、いまや軟弱外交、腰抜け外交、国辱外交、売国外交とまでののしられる。千駄ヶ谷の私邸の塀には「国賊」、「売国奴」の落書きが書きなぐられ、私邸内には石を投げ込まれる日々が続いた。幣原は、こういう無法にじっと耐え、ひっそりと邸内にとじこもり、やがて嵐が過ぎ去るのを待つほかなかった。

 それから14年。幣原は、戦災で自邸を失い、妻の縁で、二子玉川の三菱系の農園内に仮住まいの生活を送っていた。日本降伏の2ヶ月ほど前に、吉田茂が和平工作のキーマンとして幣原を担ぎ出そうとして外務省の後輩市川泰次郎を幣原のもとを訪ねさせたときには、「非常に痩せて生気がなく、がくがくとあごをならし、手もふるえ、まことに老齢そのものであった。このようなご老体を和平運動にかつぎ上げて、果してどうかとさえ怪しんだ」(幣原平和財団編『幣原喜重郎』)ほどに、老け込み、社会から完全に忘れ去られ、歴史の底に沈みこんでいた。

 その幣原が、再び歴史の表舞台に登場する。戦後二代目の首相に就任することになったのである。

 1945年10月6日、東久邇宮内閣総辞職、吉田外相の推挙で、木戸内大臣(当時)が次期総理として天皇に奏上したとき、天皇も驚いたそうだが、この人事を聞いた古手の新聞記者からも「幣原さんはまだ生きていたのか」と驚きの声があがったそうである。天皇からの呼び出しの急ぎの使者が来たときには、ちょうど厨子に確保した別宅にて隠居生活を送るべく引越しのトラックを待っていたところで、幣原にしてみれば青天の霹靂であった。

幣原の戦争放棄原体験

 幣原には、以上述べたところから、戦争放棄の思想をはぐくむ経歴と実績、バックボーンがあった。しかし、それを決定的にしたのは、敗戦の日、1945年8月15日の午後、彼が日本クラブで天皇の放送を聞いたあと、帰宅の途次に電車の中で三十代の男が、「自分は目隠しされて屠殺場に追込まれる牛のような目に逢わされた。けしからんのは我々を馴し討ちにした当局の連中だ」と叫び、群衆がこれに呼応するという光景を目撃したことであった。

 幣原は、後に、このときのことをふり返り、「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、ほかの人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。」と回想している(「外交五十年」中公文庫)。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その7

新日本建設に関する詔書

 ついで、1946年1月1日の「新日本建設に関する詔書」、一般に天皇の「人間宣言」の名で呼びならわされている詔書を見てみよう。

 これはGHQによる、天皇の神性を剥ぎ取り、国民に親しまれる天皇をアピールする工作の一環で、1945年12月15日の神道指令の延長線上に位置づけられるものであった。
 神道指令は、学校現場から「教育勅語」や「ご真影」を排除し、天皇を現人神とする思想を否定しようとするものであった。「人間宣言」は、その趣旨を本人の言葉で語らせたのである。

 「人間宣言」の案文は、当年とって73歳の幣原首相の手になるもので、彼は、同月25日深夜に至るまで、得意の英語力を生かし、精魂傾けて推敲を重ねて作業した末、後世から名文と評される案文を作り上げた。

 幣原は、疲労困憊して床についたが、翌日になって、発熱と激しい頭痛に襲われた。急性肺炎である。この頃、急性肺炎の特効薬ペニシリンを入手することは容易ではなかったが、吉田茂外相がマッカーサーにかけあい、米軍のものを供出してもらい、幣原は九死に一生を得たのであった。そのとこのお礼のためということが、1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談の表向きの理由とされているのであるが、なんとも人間臭い歴史のひとこまである。

 前置きが長くなったが、早速、その内容を以下に紹介する(冒頭、末尾の部分を省略。カタカナをひらがなにし、漢字を当用漢字に改めた原文と、表現を現代文に改めたものも併記する。)。


 「朕はここに誓いを新たにして、国運を開かんと欲す。 すべからくこの御趣旨(筆者注:五箇条の誓文の趣旨のこと)に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上をはかり、新日本を建設すべし。

 大小都市の蒙りたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、真に心を痛ましむるものあり。然りと雖も、我が国民が現在の試練に直面し、且つ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束を全うせば、独り我が国のみならず全人類のために、輝かしき前途の展開せらるることを疑はず。

(中略)

 朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和せんがため、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は、我が国民が時難に決起し、当面の困苦克服のために、また産業および文運振興のために、勇往せんことを希念す。我が国民がその公民生活において団結し、相倚り助け、寛容あい許すの気風を作興するにおいては、能く我が至高の伝統に恥ぢざる真価を発揮するに至らん。斯くのごときは、実に我が国民が人類の福祉と向上とのため、絶大なる貢献を為す所以なるを疑はざるなり」


 「私はここに、誓いを新たにし、国運を開きたい。すべてはこの御趣旨(筆者注:五箇条の誓文の趣旨のこと)にのっとって、旧来の悪しき習慣をやめ、民意を闊達に師、官民こぞって平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、民生の向上をはかり新しい日本を建設しなければならない。

 わが国の大小の都市がこうむった戦禍、罹災者の苦難、産業の停頓、食糧の不足、失業者の増加などの趨勢は、まことに私の心を痛ませるものがある。しかし、その一方、わが国民が現在の試練に直面し、徹頭徹尾、文明を平和に求める決意を固くし、結束をまっとうすれば、わが国のみならず、全人類のためにも、輝かしい前途が開けることを疑わない。

(中略)

 私の政府は、国民の試練と苦難とを緩和するため、あらゆる施策と国家運営に万全の手段を講じなければならない。同時に私は、現在の苦難にあたって、わが国民が奮起し、当面の困窮を克服するため、また産業と文運の振興のため、勇気をもって進むことを心より願う。わが国民が、その実生活において団結し、互いに助けあい、寛容な気風を高めるならば、わが国の至高の伝統に恥じない真価を発揮できるだろう。このようにすれば、わが国民は、人類の福祉と向上のため、絶大なる貢献を為すであろうことは疑を容れないところである。」


 私は、先に見た「平和国家確立の勅語」と比べると、この「人間宣言」詔書は、格段の前進があるように思う。前者においては、単に「平和国家の確立」と「人類文化に寄与」が、謳われていたに過ぎないが、後者にあっては、「平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、民生の向上をはかり新しい日本を建設」、「徹頭徹尾、文明を平和に求める決意」、「産業と文運の振興のため、勇気をもって進むこと」、「人類の福祉と向上のため、絶大なる貢献」などが書き込まれている。ここには、単にわが国一国だけの平和主義の確立ではなく、戦争放棄の普遍的・人類的課題が謳われていると解することができる。

 ここに起草者・幣原の思想が示されていると私は見るのである。

            (続く)

プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR