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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その34

憲法第1条「象徴天皇制」の成立へ

 マッカーサーが手さぐりで進んできた「象徴天皇制」への道筋もようやくゴールを迎えようとしている。彼は、ゴールを間近にした今、ラスト・スパートをかけようとしている。

 マッカーサーの前に立ちはだかる最大の難関は、1946年2月26日に第1回の会議を持ち始動する連合国・極東委員会であった。その構成国は、アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドであるが、天皇および天皇制に厳しい姿勢をとる国が目白押しである。これが活動を開始すれば、憲法改正問題は、その所管事項であるからマッカーサーといえども手の施しようがなくなってしまうのである。

 そこで浮上したのが連合国・極東委員会出し抜きのストーリーである。

 ここにおもしろい資料がある。GHQ民政局長コートニー・ホイットニーのマッカーサーに宛てた2月1日付の長文のメモである。それには以下のように述べられている(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫 原文は国立国会図書館電子図書『日本国憲法の誕生』資料と解説3-9)。

 「日本の統治機構について憲法上の改革を行うという問題は、急速にクライマックスに近づきつつある。日本の憲法の改正案が、政府の委員会や私的な委員会によっていくつか起草された。次の選挙の際に憲法改正問題が重要な争点になるといいうことは、大いにありうることである。
 このような情況のもとで、私は、閣下が最高司令官として、日本の憲法構造に対する根本的改革の問題を処理するに当たってどの範囲の権限をもつか、日本政府によってなされる提案の承認または拒否をなしうるか、あるいはまた日本政府に対して命令または指令を発しうるか、という問題について考察した。私の意見では、この問題についての極東委員会の政策決定がない限り・・・いうまでもなく同委員会の決定があればわれわれは拘束されるが・・・閣下は、憲法改正についての占領と管理に関する他の重要事項の場合と同様の権限を有されるものである。」


 ホイットニーは、弁護士出身であり、戦前に約13年間、フィリッピンで弁護士業務に従事した経験がある。さすがに法の機微をわきまえ、その隙間さがしには長けている。「連合国・極東委員会が決定を出す前にことをなせ。」とはまことに時宜を得たドクトリンである。

 そこで時間とのたたかいが始まる。マッカーサーは、勝負を仕掛けた。
 
 マッカーサーは、この難関を切り開くために、日本政府の憲法改正案の提出をまたずに可及的速やかにGHQ側においてモデル案を作成し、日本政府に提示すること、日本政府にはこれに準拠して「自主的」に憲法改正案を作成させる、という策に打って出たのである。

 この妙案は、1月24日のマッカーサー・幣原会談で話し合われ、合意に達した新憲法制定シナリオでもあったのではないかと私は考える。これが単なる憶測なのか合理的推認なのかは以下に摘記するエピソードでご判断戴きたい。

 2月1日、毎日新聞は、政府の憲法問題調査委員会(松本委員会)で検討されていた憲法改正試案をスクープしたことは前に述べた。これは同委員会で検討されていたいくつかの案のうちでは一番ましだといわれる宮沢甲案といわれるものであったが、それでも「第1条 日本国は君主国とす」、「第2条 天皇は君主にしてこの憲法の条規に依り統治権を行う」などとあり、毎日新聞記者も「あまりにも保守的、現状維持的のものにすぎないことを失望しない者は少ないと思う」と厳しい批判のコメントを加えていた。

 ずっと後になって、この特ダネをとった毎日新聞記者西山柳造は、手記を書き、ことの顛末を次のように述べている。

 「誰もいない首相官邸1階の憲法問題調査委員会の事務室の机の上に放置された草案の冊子を社に持ち帰って大急ぎで手分けして筆写したうえ、約2時間後に誰もいない事務所に戻り、元の机に返した。」

 このとおりであるなら1971年の沖縄返還協定時に、密約報道をしたあの毎日新聞記者の西山太吉に関わるいわゆる西山事件のはるか25年も前に、元祖・西山事件があったことになる。
 しかし、この憲法改正試案漏えい事件が問題にされた痕跡はない。別に想像をたくましくするまでもないが、西山柳造の記事が掲載されたのは1946年2月1日の朝刊であるから、これはその前日、午後のできごとなのであろう。その日は木曜日、彼が述べるようなことを誰にも見咎められずにできるなどとは到底考えられない。私が、これは官製スクープであったと考える所以であり、かつまた1月24日の会談において合意されたマッカーサー・幣原合作の新憲法制定シナリオの存在を裏付けるものと考える所以でもある。

 ここでマッカーサー・幣原会談の模様を伝える既出の平野文書の中で、幣原が「憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打ち明けることのできないことである。」と語っていたことを想起されたい。マッカーサー・幣原合作の新憲法制定シナリオなる私の推測は決して突拍子もないことではないことを了解していただけるのではなかろうか。

 かくしてマッカーサーは、2月3日、日曜日にもかかわらず朝早く、ホイットニーと話し合い、2月12日までに民政局において憲法改正原案を作成し、13日に日本政府に提示し、それに従い日本政府が「自主的」に憲法改正案させることを指示した。マッカーサーがホイットニーに憲法改正案原案作成作業を方向付ける3項目の要点を手書きしたメモランダムをホイットニーに交付したのはこのときのことである。
 通例マッカーサー3原則と呼ばれるこのメモランダムは、むしろマッカーサー・幣原3原則というべきではなかろうか。それは以下のとおりである。

① 天皇は、国の最高位にある。
  皇位は世襲される。
  天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする。
② 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための予防手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための 戦争をも放棄する。日本のは、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
  日本が陸空海軍をもつ権能は、将来も与えられることなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
③ 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。
  華族の地位は、今後はどのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。
  予算の型はイギリスの制度にならうこと。
 
 
 有能かつ理想的憲法をつくることに情熱を燃やした25人の民政局のメンバーが9日間、密室にとじこもり文字通り精魂傾けて、憲法改正案原案(GHQ草案)を完成させたのは2月12日、これが日本政府に交付されたのは2月13日である。
 天皇の地位を国民の意思に基づくものとし、日本国および日本国民の統合の象徴とする象徴天皇制が、ようやくにして公然たる形をとって提示された。

 実に長い道のりであった。

 この雑文も長くなってしまったが、これから憲法第9条と憲法第1条のバーター、「菊と刀のバーター」の深層を読み解き、9条論をさらに論じて行きたい。まだまだお付き合いをお願いしたい。
        
                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その33

象徴天皇制への道筋

手さぐりで進むマッカーサー―フェラーズの「情報戦」の戦果

・ 天皇の戦争責任を免責する証拠づくり

 フェラーズが仕掛けた「情報戦」は着実に戦果をあげて行った。

 本国の国務省が送り込んできおマッカーサーのお目付け役ジョージ・アチソンでさえも、1946年1月4日付のトルーマン大統領宛の報告書で、日本民主化のためには天皇制廃止が必要との見解は維持するとしつつも、「日本を統治し、諸改革を実行するため、引きつづき日本政府を利用しなければならず、したがって天皇が最も有用であることは疑問の余地がありません。」と書くほどに変化を示している。

 本国政府も、一歩足を前に進めた。1946年1月7日、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は、憲法改正問題に対するアメリカ政府の基本方針を明記した『日本の統治制度の改革』なる文書(SWNCC228)を採択し、同月11日、GHQに送達してきた。この文書は、GHQ民政局による日本国憲法改正草案、いわゆるGHQ草案の作成にあたり、マッカーサー三原則とともにそのよりどころとされたものであるが、その第11項には、次のように記されていた。

 「わが政府は、日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを、奨励支持したいと願うのであるが、天皇制維持の問題は、日本人自身の決定に委ねられなければなるまい。
天皇制が維持されたときも、上に勧告した改革中数多くのもの、例えば、予算に関するすべての権限を、国民を代表する立法府に与えることにより、政府が国民に対し直接責任を負うことを定めた規定、およびいかなる場合にも国務大臣ないし閣僚に就任しうるのは文民に限るとの要件を定めた規定などが、天皇制のもつ権力と影響力とを、著しく弱めることになろう。
その上さらに、日本における〔軍と民の〕「二重政治」の復活を阻止し、かつまた国家主義的軍国主義的団体が太平洋における将来の安全を脅かすために天皇を用いることを阻止するための安全装置が、設けられなければならない。
これらの安全装置には、(1) 天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言にもとづいてのみ行動するものとすること、(2) 天皇は、憲法第1章中の第11条、第12条、第13条および第14条に規定されているような、軍事に関する権能をすべて剥奪されること、(3) 内閣は、天皇に助言を与え、天皇を補佐するものとすること、(4) 一切の皇室収入は国庫に繰り入れられ、皇室費は、毎年の予算の中で、立法府によって承認さるべきものとすること、などの諸規定が含まれなければならない。」


 フェラーズは、これらの作戦と並行して、天皇個人の戦争責任を免れさせるための作戦も進めた。

 フェラーズは、マッカーサー・天皇の第1回会見の直後、天皇を無罪とする核心を、開戦責任を否定できるかどうかに絞り込み、部下の弁護士の職歴を持つジョン・アンダーソン少佐に、昭和天皇を無罪とする論拠について法的検討を命じた。アンダーソンは、検討の結果、宣戦の詔書に天皇自らが自発的に署名したかどうかが重要であり、「詐欺、威嚇あるいは強迫によって不本意な行動をとらざるを得なかったという事実を昭和天皇が立証できれば、民主的裁判所で有罪判決が下されることはない」との法的見解を示した。
 情報将校フェラーズの行動は素早い。ただちにその点について日本政府に明確な見解を出させなければならないと思い立ち、非公式にこれを日本政府高官に伝えさせた。幣原内閣の内閣書記官長であった次田大三郎の日記によると、1945年10月26日の項で、同日、来訪した陸軍中将原口初太郎が、フェラーズとの会見談として、大要次のようなことを語ったということが記載されている。

・ 真珠湾攻撃に対する昭和天皇の責任が米側では最も重要かつ決定的な問題である。
・ マッカーサーもフェラーズも、何れも昭和天皇に対しては極めて好い感情を持っており、どうにかしてこの問題を昭和天皇に迷惑がかからないように解決したいと考えている。
・ 本国の世論はなかなか厳しく、ソ連の申し入れもあって、マッカーサーも思うようにならない。
・ ひととおりの弁明を準備しておかねばならない。


 こうして幣原内閣が考え出したひととおりの弁明は、11月5日、「戦争責任に関する件」と題する閣議決定である。これは次のように述べる。

・ 大東亜戦争は、帝国が四囲の情勢に鑑みやむを得ざるに出でたるものと信じいること。
・ 天皇陛下におかせられてはあくまで対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御軫念あらせられたること。
・ 天皇陛下におかせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては憲法運用上確立せられおる慣例に従わせられ、大本営、政府の決定したる事項を却下あそばされざりしこと。


 東条に騙されたなどと露骨なことは言えないので、上品に立憲君主制の原理を使って、天皇免責論を打ち出している。しかし、この説明に説得力があるかどうかは、戦前天皇制と天皇の言動に関するの綿密な検討が必要であるが、私はこの弁明は成り立たないと思う。

 フェラーズは、このような手を打っただけではなく、天皇周辺にも周到に働きかけを進めた。

 最初に接触をもったのは、1921年から12年間宮内次官を務め、フェラーズと同じクェーカー教徒でもあった関谷貞三郎であった。同じクェーカー教徒で、交流のあった河合道を関谷のもとにさしむけ、「天皇が真珠湾奇襲を承知していたかどうかを確かめることが最も重要であり、天皇には責任がないという根拠を明らかにするべきだ」との自己の意見を伝えさせたのである。それは10月2日のことであった。こうして同月16日、関谷は河合とともにフェラーズを訪問し、この問題について協議した。

 フェラーズは、それと並行して近衛周辺に対しても同様の工作をしている。

 12月に入ってまもなく、天皇および側近グループに大きな不安の影がおおいかぶさってきた。GHQから、2日には皇族中の長老・梨本宮守正、6日には近衛に続いて側近中の側近で11月24日内大臣府廃止に至るまで内大臣を務めていた木戸幸一、その他続々と、要人の戦犯指名と逮捕令が出されたのである。これには天皇も心を痛めたようである。
 このころになるとフェラーズの話が天皇や側近の耳にも届いていたのであろう。12月4日には、侍従次長に就任したばかりの側近の木下道雄が万一の場合に備えて潔白の証明を作っておいてはどうかと勧めると、天皇もその気になり、そうした資料の整理を命じている。
 木下の「側近日誌」の同日の項によると、「非常に重要なる事項にしてかつ外界の知らざる事あり。御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可と思い、右お許しを得たり。」とある。
天皇の命を受けた木下による弁明資料作成の作業は、これ以後続いていく。天皇は立憲君主としての務めを忠実に果たしたに過ぎない、昭和天皇も皇室も平和を求め祈ってきたという趣旨の弁明資料づくりが断続的に行われる。
この作業は、やがて『昭和天皇独白録』へと結実していくことになる。

マッカーサーの決断

 前に、マッカーサーは、細心にして気配りの人でもあり、悩み多き人でもあったと述べたが、ここまで用意周到に進められた準備を経て、一挙に、歩みを速めた。

 転機となったのは、一つは連合国・極東委員会による対日占領管理の動き(それには憲法改正のチェックも含まれていた。)、もう一つは日本国の首相。幣原との1946年1月24日の会談であった。後者については既に詳述したとおりである。

注:連合国・極東委員会とは、1945年12月27日、モスクワで行われた米・英・ソ三カ国外相会議において設置合意された対日占領に関するGHQ、マッカーサーを監督するための連合国11カ国の合議制機関であり、憲法改正についてもその所管事項とされていた。それはワシントンに設置され、その第1回会議は、1946年2月26日、同地で開催されることになっていた。

 幣原は、戦争の放棄と戦力不保持の申し出をし、しかも、彼は、天皇に政治的実権は不要だとも考えていると述べた。これをワン・セットにして憲法に書き込めば、きっと本国をはじめ連合国連諸国の政府や国民世論も承知するだろう。天皇および天皇制の利用はこれで貫徹できる。とマッカーサーは小躍りして喜んだに違いない。

 早速、翌1月25日に、のばしにのばしてきた総合参謀本部(JCS)の前年11月29日付書簡への回答を送った。

 総合参謀本部(JCS)の書簡(WX85811)

 「(前略) 貴官も承知のとおり、最終的にヒロヒトを戦争犯罪人として裁判に付すべきか否かの問題は、アメリカにとっても重大な関心事である。ヒロヒトは、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れてはいないというのがアメリカ政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されると考えてよかろう。 (中略) 従って、いずれにせよ、われわれは、常にしかるべき秘密保持の手配をして作業を進めながらも、遅滞なく証拠を収集しなければならないのは明白と思われる」。

 マッカーサーの回答

 「WX85811を受けとって以来、天皇に対してとりうる刑事上の措置につき、与えられた条件の下で調査がなされてきた。過去10年間に日本帝国の政治決定と天皇を多少なりとも結びつける明確な活動に関する具体的かつ重要な証拠は何ら発見されていない。(中略)
 もしも天皇を戦犯として裁判かけるべきだというのであれば、占領プランに大きな変更がなされなければならない。彼を起訴すれば、間違いなく日本人の間に激しい動揺を起すことであろうし、その反響は計り知れないものがある。
 天皇はすべての日本人を統合するシンボルである。彼を滅ぼすことは国を崩壊させることになる。(中略)
 近代的な民主主義の方法を導入するすべての望みは消滅し、軍事的占領がついに終結する時には、おそらく共産主義の線に、そったある強烈な統制的組織形態が分断された大衆の中から起こってくるだろうと私は信ずる。(中略)
 占領軍を大幅に増大することが絶対に必要となってくる。それには最小限100万の軍隊が必要となろうし、その軍隊を無期限に駐屯させなければならないような事態も十分ありうる。それに加えて何十万人かの外国人文官を導入することが必要となるかもしれない。天皇を戦争犯罪者として裁判にかけるべきか、否かの決定は、このように高度な政策決定の問題を含んでいるから、私は、そのような勧告をすることは適当とは考えられない。
 しかし、もしも連合国の首長たちがそう決断しようというなら、上記の方策は不可避と考え、勧告する。

 統合参謀本部(JCS)から前年11月29日付で指示があったにもかかわらず、マッカーサーは何の調査もしないまま、フェラーズのあの「天皇および天皇制のすすめ」ともいうべき覚書に書かれていたことを最大限活用し、誇張したこの恫喝ともとれる文書に、マッカーサーの並々ならぬ決意がこめられているようである。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その32

「象徴天皇制」への道筋

手さぐりで進むマッカーサー―「情報戦」を仕掛ける軍事秘書フェラーズ

 マッカーサー・天皇の第1回会見の記録によると、マッカーサーが「それ(東亜の復興云々)はまさに私の念願とするところであります。只私より上の権威(オーソリティ) があって、私はそれに使われる出先(エージェンシー)に過ぎないのであります。私自身がその権威であればという気持が致します。」と述べたくだりがある。

 マッカーサーは、日本にあって、圧倒的な軍事力をバックにして占領政策を推し進める最高権力者となった。しかし、その権力基盤は、外見に映るほどには強固ではなかったのである。

 占領政策全般に関しては、本国政府の「降伏時におけるアメリカの初期対日方針」(SWINCC150-4)によって縛られる。天皇および天皇制の取り扱いについては、本国政府の向性が定まらず(1945年10月19日付SWNCC55-6)、統合参謀本部(JCS)から11月29日付書簡で、「(前略) 貴官も承知のとおり、最終的にヒロヒトを戦争犯罪人として裁判に付すべきか否かの問題は、アメリカにとっても重大な関心事である。ヒロヒトは、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れてはいないというのがアメリカ政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されると考えてよかろう。 (中略) 従って、いずれにせよ、われわれは、常にしかるべき秘密保持の手配をして作業を進めながらも、遅滞なく証拠を収集しなければならないのは明白と思われる。」と言ってくる始末である。

 同年9月10日には厳しい上院合同決議がなされてフタをされている。本国の世論も沸騰している。日本降伏直前の6月に行われたギャラップ調査では、「死刑にする」が全体の33%、「裁判で決定」17%、「終身刑」11%、「追放」9%、傀儡として利用する」は僅かに3%に過ぎなかった。また8月に行われた全国世論調査(NORC)では、「天皇制廃止」が66%だった。

 それに連合国諸国もやかましい。本国政府も、政治顧問に「知日派」を送って欲しいと要請したのに、日本に厳格な姿勢を保持する親中派、ジョージ・アチソンを派遣してきた。これでは政治顧問ではなくマッカーサーの監視役ではないか。

 ここでマッカーサーの「軍事秘書」フェラーズ准将が登場する。彼は、日本降伏直前の1945年7月21日、友人の新聞記者にあてた手紙の中で、「戦争が終われば、日本は最もコントロールしやすい国になるだろう」と書いている。

 彼は、戦略情報局(OSS)の心臓部である心理作戦計画本部に勤務したときに精通したあの天皇制の軍事利用の包括的企画書「日本計画(最終草稿)」に精通し、アメリカ太平洋(陸)軍心理作戦部(PWB)部長として、それを活用した実戦経験がある。

 彼が友人の新部記者への手紙で述べたことは、その実戦経験に裏打ちされたものであったのであろう。今、彼は、マッカーサーの「軍事秘書」として、対日占領の遂行を軍事的見地から補佐する立場にある。ここで、「日本計画(最終草稿)」で学んだ天皇と天皇制利用の「情報戦」を、日本政府及び日本国民、アメリカ政府及びアメリカ国民、それに連合国を中心とする国際社会に仕掛けなければその存在価値がないではないか。

 かくして、フェラーズは、いわば占領下における天皇および天皇制の利用「情報戦」を戦い抜く決意を固め、かつてのアメリカ太平洋(陸)軍心理作戦部(PWB)を改組したGHQの民間情報教育局(CIE)も手足としてフル稼働させた。

 彼がとった作戦は、三つである。一つは『天皇および天皇制のすすめ』を作成し、マッカーサーが確信をもって天皇および天皇制の存続を選択できるようにすること、二つには愛される天皇のイメージを作り上げ、天皇および天皇制の存続のために内外の環境づくりをすることること、三つには日本側に天皇が戦争責任を負わない論拠を提示させ、戦犯容疑者に昭和天皇を矢面に立たせないように根回しすること、であった。

・ 『天皇および天皇制のすすめ』の作成

 情報将校フェラーズの動きには無駄がない。マッカーサー・天皇の第1回会見の6日後はやくも第一の作戦を完了させた。彼は、同じクェーカー教徒で交流のあった日本人、河合道や一色(旧姓渡辺)ゆりらの嘆願、彼自身の天皇への思いなど麗しい物語で飾りたてた『天皇および天皇制のすすめ』ともいうべき10月2日付の「覚書」を作成した。

 この「覚書」の中から一部を抜粋すると以下のとおりである。

 「天皇に対する日本国民の態度は概して理解されていない。キリスト教徒とは異なり、日本国民は、魂を通わせる神をもっていない。彼らの天皇は、祖先の儀徳を伝える民族に生ける象徴である。天皇は、過ちも不正も犯すはずのない国家精神の化身である。天皇に対する忠誠は絶対的なものである。」
 「天皇は、開戦の結果について、東条が利用したような形でそれを利用するつもりはなかったとみずからの口で述べた。」
 「いかなる国の国民であろうと、その政府をみずから選択する固有の権利をもっているということは、アメリカ人の基本的観念である。日本国民は、かりに彼らがそのような機会を与えられるとすれば、象徴的国家元首として天皇を選ぶであろう。」
 「天皇の命令により、700万の兵士が武器を放棄し、すみやかに動員解除されつつある。天皇の措置によって何万何十万ものアメリカ人の死傷が避けられ、戦争は予定より早く終結した。したがって、天皇を大いに利用したにもかかわらず、戦争犯罪のかどにより彼を裁くならば、それは日本国民の目には背信に等しいものであろう。」
 「もし天皇が戦争犯罪のかどにより裁判に付されるならば、統治機構は崩壊し、全国的反乱が避けられないだろう。(中略)何万人もの民事行政官とともに大規模な派遣軍を必要とするであろう。占領期間は延長され、そうなれば日本国民を疎隔してしまうことになろう。」


 マッカーサーは、これにより天皇および天皇制を守る意思をますます強くしたことであろう。

・ 愛される天皇のイメージづくり

 次いでフェラーズは、民間情報教育局(CIE)を通じて、天皇の神性を剥ぎ取り、国民に親しまれる、愛される天皇のイメージづくりに奔走した。それらが現実に形をとってあらわれたのが、1945年12月15日の神道指令、1946年1月1日の「人間宣言」詔書及び昭和天皇の地方行幸であった。彼の意を汲んで働いた民間情報教育局(CIE)のケン・ダイク、ハロルド・ヘンーダーソンその他の面々は、かつてアメリカ太平洋(陸)軍心理作戦部(PWB)で部下たちだった。

 神道指令は、学校現場から「教育勅語」や「ご真影」を追放し、天皇を現人神とする思想を否定しようとした。また「人間宣言」は神道指令の延長線上に位置するもので、天皇みずからの口を通じて、国民に次のように語りかけた。

 「朕と爾ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とにより結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神として、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにあらず」

 
 天皇の地方行幸も天皇自身からも宮内省からも肯定的に受け止められ、すみやかに具体化していった。1946年2月19、20日の神奈川視察を皮切りに順次進められ、白馬にまたがり軍服姿の天皇の好戦的イメージは、背広姿で、歓呼する国民の列の中を歩き、親しく語りかけるという演出により、ソフトで親しみのある天皇のイメージにとってかわった。

 第三の作戦は、天皇の戦争責任を免責する証拠づくりである。これについては次回とする。

                             (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その31

「象徴天皇制」への道筋

手さぐりで進むマッカーサー―天皇のイメージ・チェンジ

 マッカーサーは、天皇と天皇制を占領政策遂行に利用するために、まず天皇を日本の元首として丁重に遇し、自己と対等の位置を占めるものであることを世界にアピールし、開戦前には対米英協論者、開戦消極論者であったこと、それにもかかわらず敗戦後は、自己の責任を回避しようとはしていないことを示して、その戦争責任論の沈静化を図ることが必要だと考えた。

 天皇との会見は、そのための最も重要なセレモニーであった。

 かくして9月27日のマッカ-サー・天皇の第1回会見が行われることとなった。会見の場は、GHQ本部ではなく、マッカーサーの住居が置かれていたアメリカ大使館であった。

 同日午前10時、天皇は、シルクハットにフロックコートといういでたちで、緊張した面持ちをあらわにして、アメリカ大使館玄関の車寄せに、御用車ダイムラーから降り立った。『昭和天皇実録』は、「最高司令官軍事秘書ボナー・フランク・フェラーズ、最高司令官副官フォービアン・バワーズ」が玄関で出迎えたと記している。あのフェラーズとの運命的な出会いである。
 天皇は、シルクハットを取り、敬礼で出迎えたフェラーズに握手の手を差し出した。フェラーズは感激した面持ちで、天皇を、奥の応接間で待つマッカーサーのもとに案内した。同伴を許されたのは、通訳の奥村勝蔵だけであった。

 そこで両手を腰にあて、ゆったりと構えた大柄なマッカーサーの横に緊張しきって直立不動の姿勢をとり、小柄で貧弱そうにさえ見える天皇が並び、ツーショットの写真が撮影された。この勝者と敗者のコントラストを際立たせた写真は内外に発信され、日本国民と世界の人々に鮮烈な印象を与えた。

 この日、約40分にわたってマッカーサー・天皇の会談が行われた。いつにもましてマッカーサーは雄弁に語ったようだ。会談が終わると、今度は、マッカーサーが、天皇に寄り添うように、玄関まで見送りに出た。マッカーサーにとって、会談は、満足のゆくものだったのだろう。彼は、マッカーサー回想録で、次にように語っている。

「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。
(中略)
 しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』
私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。」


 彼は、よほど浮き浮きした気分になったのであろう。さらに次のようにも語っている。

 「天皇が去ったあと、私はその風貌を妻に話そうとしかけたが、妻はくつくつと笑ってそれをとめ、『ええ、私も拝見しましたのよ。アーサーと私はカーテンのかげからのぞいていましたの』といった。まことに珍しいことの起こる世界ではある。どう見ても、ほほえましい世界であることは間違いない。」

 しかし、マッカーサーが、最も喜んだのは、その目論見どおり、この会見の模様は、さまざまなルートで広められ、天皇のイメージ・チェンジが進んで行ったことであろう。例をあげれば次の如くである。

・ 内務省スポークスマン談として報じた1945年10月2日付「ニューヨーク・タイムズ」記事(10月1日東京発ロイター電)

  「マッカーサー最高司令官と裕仁天皇とは、もし武力侵攻が実行されたなら、日米双方に多くの人命が失われ、日本の完全な破滅に終わったであろうという点で、完全に意見が一致した。天皇はマッカーサー元帥が誰に戦争責任があるかについてまったく言及しなかったことに、とりわけ感動した。天皇は個人的見解として、最終的な判断は後世の史家に委ねなければならぬだろう、と言ったが、マッカーサーは何の意見も述べなかった。」

・ 1945年10月27日付ジョージ・アチソンのメモランダム(9月27日当日にマッカーサーが天皇の発言として語ったことをまとめ、アメリカ務省に送った極秘電文。拓殖大学教授秦郁彦がアメリカ務省公開文書から発見)

 「天皇は握手が終わると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東条首相のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民のリーダーとして、国民のとったあらゆる行動に責任をもつつもりだ、と述べた」

・ フェラーズの1945年9月27日付家族への手紙 

 「(会見を終えて)天皇がアメリカ大使館を出発したとき、マッカーサーは感動の面持ちでこう言った。「私は自由主義者であり、民主主義国で育った。しかし、惨めな立場に立たされた天皇の姿を見ると、私の心は痛む。」
「オフィスに向かう途中で、マッカーサーは、『天皇は困惑した様子だったが言葉を選んでしっかりと話をした』と語った。『天皇は英語がわかり、私の言ったことはすべて直ちに理解した。』」
 「私は言った。『天皇はあなたから処罰を受けるのではないかと恐れているのですよ。』 マッカアーサーは答えた。『そうだな。彼はその覚悟ができている。処刑されてもしかたがないと考えている。』」

・ 高松宮日記(1945年9月27日)

 「(前略)約15分間、MCは一人で語る(戦争の破壊力は極めて大となれり。今後の戦争は勝敗何れとも甚だしき損害をうくべし。陛下は実によい時機に戦を止められた・・・)。陛下は『戦争にならぬよう努めたが及ばなかった』、MC『一人の力ではどうともならぬことがある』、陛下『自分も国民も十分に戦敗を認め知っておる』、MC『陛下は一番日本国、国民をご存知の方である。今お考えのこと、重大なるご心配あれば極秘裏に伝えられたい。MCは一人で十分考えて協力する』、陛下『進駐軍の平穏なることを喜ぶ』、MC『はじめに来た部隊は歴戦者で荒かったが、今後益々よくなるであろう』、陛下『今後かかる機会を度々持ちたい』」

 ところで通訳の奥村は前述のとおり、ほんの2日前に式部職御用掛に任じられたばかりの外務省参事官であり、当然、正式記録をとり、宮内省および外務省に提出していると思われたが、永らく公表されていなかったのである。ついに外務省は2002年10月17日、これを公表し、1週間後宮内庁も公開した。両者は当然のことながら同文であった。

 『昭和天皇実録』から、挨拶や雑談を除いて実質的意味のある部分を抜粋し、摘記してみると以下のとおりである(カタカナを平仮名に改めたほかは原文どおりである。)。 

(前略)

天 皇 この戦争については、自分としては極力之を避けたい考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とするところであります。

マ元帥 陛下が平和の方向に持って行くため御軫念あらせられた胸中は、自分の十分諒察申上げるところであります。只、一般の空気が治々として或方向に向いつつあるときは、別の方向に向って之を導くことは、一人のカを以てしては為し難いことであります。 恐らく最後の判断は、陛下も自分も世を去った後、後輩の歴史家及世論によって下されるのを俟つほかないでありましょう。

天 皇 私も日本国民も敗戦の現実を十分認識して居ることは申す迄もありません。今後は平和の基礎の上に新日本を建設する為、私としても出来る限りを尽したいと思います。

マ元帥 それは崇高な御心持であります。私も同じ気持であります

天 皇 ポツダム宣言を正確に履行したいと考へて居りますことは、先日、侍従長を通じ閣下にお話した通りであります。

マ元帥 終戦後、陛下の政府は誠に多忙の中にかかわらず、あらゆる命令を一々忠実に実行して余すところがないこと、又幾多の有能な官吏が着々任務を遂行して居ることは、賞賛に値するところであります。又聖断一度下って日本の軍隊も日本の国民も全て整然と之に従って見事な有様は、是即ち御稜威のしからしむるところでありまして、世界の何れの国の元首と雖も及ばざるところであります。之は今後の事態に処するに当り、陛下のお気持を強く力づけて然るべきことかと存じます。
  申上げる迄もなく、陛下程日本を知り日本国民を知る者は他に御座居ませぬ。従って今後睦下に於かれ、何等御意見乃至御気付の点(opinion and advice)も部座居ますれば、侍従長其の地然るべき人を通じ御申聞け下さる様御願い致します。それは私の参考として特に有難く存ずるところで御座居ます。勿論全て私限りの心得として他に洩らす如きことは御産居ませんから、何時たりとも又如何なる事であろうと、随時御申聞け願いたいと存じます。

天 皇 閣下の使命は東亜の復興即ちその安定及び繁栄をもたらし以て世界平和に寄与しりに在りことと思いますが、この重大なる使命達成の御成功を折ります。

マ元帥 それ(東亜の復興云々)はまさに私の念願とするところであります。只私より上の権威(オーソリティ) があって、私はそれに使われる出先(エージェンシー)に過ぎないのであります。私自身がその権威であればという気持が致します。

天 皇 閣下の指揮下の部隊による日本の占領が何等の不祥事なく行われたことを、満足に存じて居ります。この点においても、今後とも、閣下の御尽力に侯ツところ大なるものがあると存じます。

マ元帥 私の部下には苛烈な戦闘を経て来た兵士が多勢居りまして、戦争直後の例として上官の指示に背き事件を惹起する者が間々居りますが、この種の事件を最小限にする為には十分努力するつもりであります。

(後略)


 ところで天皇の戦争責任を問う声を鎮静化するには、一つは開戦を避ける努力をした又は開戦は軍部の独走もしくは策略によるものという法的責任を小さくする主張、もう一つはあれこれいいわけをしない潔さを示すことの二つのアプローチがある。

 マッカーサーとの第1回会見では、このいずれにウェイトが置かれたかははっきりしないが、上記の資料から見る限り、これら両面に及んでいたことは間違いないようである。しかし、このマッカーサーの目論見は、天皇に対するイメージ・チェンジを図る点にあり、後者にウェイトが置かれていたのかもしれない。

 この会見を経て、マッカーサーの軍事秘書フェラーズの作戦が始まる。その詳細は次回とする。

                             (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その30

「象徴天皇制」への道筋

手さぐりで進むマッカーサー―その悩み

 さてマッカーサーが厚木飛行場に降り立ったときの堂々たる雄姿は、我が国国民を瞠目させるに足りるものであったが、マッカーサーは決して武勇一筋の人ではなく、細心にして気配りの人でもあり、悩み多き人でもあった。

 8月28日、フランス仕込みの新首相・東久邇宮は、日本人記者に対するはじめての記者会見に臨んだ。そこで、東久邇宮は、敗戦を招いた原因について問われ、次のように述べた(8月30日付「朝日新聞」)。

 「ことここに至ったのはもちろん政府の政策がよくなかったからでもあるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は、軍・官・民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民的総懺悔をすることが我が国再建の第一歩と信ずる」

 敗戦の責任は「国民の道義のすたれたのも原因の一つ」であり、「全国民的懺悔」が必要だとするこの発言は、3日前の8月25日に、緒方竹虎内閣書記官長がラジオ放送で用いた「一億総懺悔」なる言葉の二番煎じであるが、東久邇宮の「一億総懺悔論」と揶揄され、天皇をはじめ真の戦争責任者を擁護するものだとして多くの国民からの批判を招くことになった。

 9月18日は、これもはじめての試みであるが、東久邇宮は外国人記者会見に臨んだ。そこで東久邇宮は、フランス人記者と流暢なフランス語で会話をかわし、さすがは国際通だと注目を浴びて悦に入っていた。ところが、オーストラリアやニュージーランドなどの記者から、「天皇陛下その他責任者等は真珠湾の奇襲に関して事前に知っていたか」、「民主主義国の一部では天皇陛下も犯罪者の一部と見ているが所見如何」、「日本の制度としては天皇陛下が知ることなくして戦争を始めることが出来るか」などと核心に触れる質問の矢が放たれるや、突然、乱れてしまった。問われたのは世界が注視する、天皇の「開戦責任」であったが東久邇宮は、まともに答えられず、混乱、矛盾した断片的発言に終始した。

 「詳細は自分にはわからない」、「研究してお答えする」、「天皇陛下は責任者ではないと確信する」等々。

 会見に密かに潜り込んだ警視庁係官も、「大部にありては、今次会見は記者団側において我が国の急所とも称すべき所を大胆に質問せるに対し、総理宮殿下の御答弁は確信と自信に満ちたものとは解せられずとし、失望の念を表明しおれる状況」と率直に報告をしているほどであり、記者らが「コンプリートリー・フール」と騒いのもうなずける(粟屋憲太郎編「資料日本現代史2」大月書店)。

 マッカーサーは、前述のとおり、国内外に展開する約700万人の武装将兵の整然たる武装解除を目の当たりにして、天皇と天皇制が発揮した威力に目をみはり、天皇および天皇制を利用することによって占領目的を早期に成功裡に達成することができるとの確信を抱いた。

 しかし、その一方で、天皇の名のもとになされた日本軍の真珠湾奇襲をはじめとする数々の忌まわしい残虐非道な蛮行、バターン死の行進をはじめ皇軍の行った捕虜虐待や天皇陛下万歳を叫ばせた特攻攻撃などに思いを致し、天皇及び天皇制の取り扱いについて慎重な検討が続き、いまなお結論がまだ出せない本国政府の状況、天皇の責任を厳しく問う連合国諸国政府及びアメリカをはじめ世界の人々の世論などを考慮すると、軽々に天皇及び天皇制を利用するとの結論を下すわけにもいかなかった。

 天皇の責任論を否定できる有力な「事実と論理」が欲しいところである。この点では、既に会見を済ませて得た東久邇宮の指導力には疑問があるし、特に上記における記者会見での発言の無定見と混乱ぶりは目を覆うばかりであった。

 マッカーサーのジレンマ、悩みである。

 我が国の指導者の中にも、東久邇宮のあやうい態度に危機感を抱く者がいた。東久邇宮内閣に副首相格国務大臣として入っていた近衛文麿である。近衛は、「真珠湾攻撃は東条の独断であって、陛下は知らなかった」という主張をアメリカ国民にアピールすることを目論んでいた。全責任を東条へ押し付ければ、天皇および天皇制への影響を和らげることができる。これは近衛の確信であり、早くも敗戦前の1944年4月12日に、この考えを吐露している(細川護貞「細川日記 上」中央公論社)。

 その近衛が裏で深く関わって、1945年9月25日、『ニューヨーク・タイムズ』記者、フランク・クルックホーンの天皇への単独記者会見が実現した。会見といってもそれは名ばかりのもので、実際には、事前に質問書を提出し、それに外務省や宮内省の関係者が回答文を起草し、天皇が裁可し、書面で回答するという方式であった。所要時間は僅かに5分。『昭和天皇実録』には、「25日 火曜日 午前10時、モーニングコートをご着用、表拝謁ノ間に出御され、本日臨時式部職御用掛拝命の外務省参事官奥村勝蔵に謁を賜う。引き続き同所において、今般来朝のニューヨーク・タイムズ太平洋方面支局長フランク・クルックホーンにわたり謁見を仰せ付けられる。」と記述されている。ここに外務省参事官奥村勝蔵が式部職御用掛、つまり天皇側近の通訳に任じられていることに注目されたい。

 その一問一答の一部は次のとおりであった。

問 「宣戦の詔書が、アメリカの参戦をもたらした真珠湾への攻撃を開始するために東条大将が使用した如くに使用される、という のは陛下の御意思でありましたか」
答 「宣戦の詔書を、東条大将が使用した如くに使用する意図はなかった」


 要するに真珠湾奇襲のあとで宣戦の詔書が発表されたことは、天皇は知らなかったし、その意図するところでもなかったというのであり、東条への責任押付け論である。
 しかし、1941年11月5日、天皇臨御のもとで開かれた大本営政府連絡会議(御前会議)で、永野修身軍令部総長から上奏された「対米英蘭戦争帝国軍事作戦計画」には航空母艦部隊の集中使用によるハワイ真珠湾のアメリカ主力艦隊に対する奇襲攻撃が明記されており、これを天皇が裁可したのであったから、これは奇妙な言い訳であった。

 この会見記は、1945年9月25日付『ニューヨーク・タイムズ』一面トップで「ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条に押し付ける」との大見出しのもとに報じられた。それがまわりめぐって同月29日に日本の新聞各紙に転載されるという事態になってしまった。
 内閣情報局は、その直前、「このままでは天皇自身が東条大将を非難したかのように思われる」と横やりを入れ、日本の新聞各紙が掲載することを止めようとした。しかし、新聞社側が抗議、GHQも日本政府の措置を制止したので、そのまま掲載された(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)。

 以上の経過からを見れば、天皇の開戦責任、特に真珠湾奇襲攻撃への天皇の関与の程度が、極めてシリアスかつ微妙な問題であったことは容易に理解することができるが、果たしてマッカーサーはこの難問をどう裁いて行ったたのであろうか。

                                  (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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